前回は、短歌は感性だけでは書けない、と書いた。
感じる力は、短歌にとって必要である。何も感じていないところから、作品は生まれにくい。しかし、感じたものがそのまま短歌になるわけではない。感じたものを拾い、そこに見方を与え、言葉を選び、三十一音前後の形式の中に入れ、さらに削る。その過程があって、はじめて短歌は作品になる。
では、その最初の入口である「素材」は、どこにあるのか。
ここで考えたいのは、短歌の素材は、特別な出来事でなくてよい、ということである。
短歌を書こうとすると、多くの人はまず「何を書けばよいのか」で止まる。自分には歌にするような出来事がない。劇的な別れもない。大きな旅もない。人生を変えるような出会いもない。強い悲しみや、忘れられない事件もない。だから、自分には短歌にする材料がないのではないか、と思ってしまう。
もちろん、別れ、死、旅、病気、出会い、喪失、再会のような出来事は、短歌の素材になる。強い経験は、人の記憶に深く残る。そこから言葉が生まれることもある。それを否定する必要はない。
しかし、それがなければ短歌を書けないわけではない。
短歌は、大事件を報告する形式ではない。人生の大きな出来事を、短く要約するための器でもない。短歌が扱うのは、出来事の大きさそのものではなく、その出来事や場面が、人の中でどのように残ったかである。だから、素材は必ずしも劇的でなくてよい。
むしろ、短歌の入口は、もっと小さいところにある。
朝、台所に置いたままのコップがある。洗濯物の一枚だけが、いつまでも乾いていない。駅のホームに、片方だけの手袋が落ちている。スマートフォンに通知が来ているのに、なぜかすぐには開けない。帰り道の信号が、いつもより長く感じられる。窓の雨の跡が、朝になっても残っている。誰かに言いかけて、結局言わなかった言葉がある。
これらは、出来事としては小さい。人に話せば、「それだけ?」と言われるかもしれない。しかし、短歌の素材としては十分である。
素材とは、短歌の出発点になるものである。
それは、見たものでもよい。聞いたものでもよい。触れたものでもよい。思い出したものでもよい。身体に残った感覚でもよい。誰かとの会話でもよい。言いかけてやめた言葉でもよい。窓の外の風景でもよい。帰り道の信号でもよい。スマートフォンの通知でもよい。
大切なのは、それがすでに完成した短歌である必要はない、ということである。
素材は、まだ作品ではない。素材は、短歌になる前のものだ。だから、きれいに整っていなくてよい。意味がはっきりしていなくてよい。感動的でなくてよい。自分でもなぜ気になったのかわからないままでよい。
むしろ、その「なぜか気になる」という感覚が、短歌の入口になる。
日常には、何も起きていないように見える時間が多い。朝起きる。顔を洗う。服を着る。電車に乗る。仕事や学校へ行く。帰ってくる。食事をする。眠る。ひとつひとつを見れば、特別な出来事とは言いにくい。
しかし、その中には小さな引っかかりがある。
いつもあるはずのものが、今日はない。見慣れた場所が、少し違って見える。誰かの言葉が、あとから残る。何でもない物に、妙に目が止まる。すぐ忘れるはずの場面だけが、なぜか忘れられない。
短歌の素材を拾うとは、そういう小さな引っかかりを見逃さないことである。
ここで注意したいのは、日常を書けば何でも短歌になる、という意味ではないことである。日常をそのまま書けば、それだけで作品になるわけではない。「駅のホームに手袋が落ちていた」と書くだけでは、まだ出来事の記録である。「雨が降った」と書くだけでは、まだ状況の説明である。「通知を開かなかった」と書くだけでは、まだ行動の報告である。
しかし、それらは短歌の入口にはなる。
駅のホームに落ちていた片方だけの手袋に、なぜ目が止まったのか。雨が降ったことではなく、その雨の何が残ったのか。通知を開かなかったとき、自分の中で何が止まっていたのか。そこへ進んでいくためには、まず素材が必要である。
素材を拾わなければ、見方も生まれない。見方がなければ、言葉も選べない。言葉がなければ、形式に入れることもできない。
だから、短歌を書く最初の技術は、特別な出来事を待つことではない。日常の中にある小さな素材に気づくことである。
短歌を書こうとすると、つい大きなテーマから始めたくなる。
愛とは何か。孤独とは何か。生きるとは何か。別れとは何か。時間とは何か。記憶とは何か。
こうした問いが悪いわけではない。むしろ、短歌は最終的にはそういう大きなものに触れることがある。小さな一首の中に、愛や孤独や時間や死が立ち上がることもある。
ただし、最初から大きなテーマを握りしめると、言葉は硬くなりやすい。
「私は孤独だ」と書くと、孤独の説明になる。「人生は悲しい」と書くと、人生についての意見になる。「愛は難しい」と書くと、考えのまとめになる。それらは間違いではないが、短歌としては読者の中に場面が立ち上がりにくい。
大きなテーマは、小さな具体物を通して立ち上がることが多い。
孤独そのものを書く前に、夜の台所に残ったコップを書く。別れそのものを書く前に、相手の傘だけが玄関にないことを書く。時間そのものを書く前に、朝まで残った窓の雨の跡を書く。言えなかった気持ちそのものを書く前に、送信されなかった文章の画面を書く。
小さなものは、小さいままで終わるとは限らない。むしろ、小さいからこそ、読者が自分の記憶を重ねる余地が生まれる。
短歌の素材は、壮大である必要はない。むしろ、最初は小さく、具体的であるほうがよい。コップ、通知、手袋、洗濯物、窓、信号、台所、傘、靴、改札、レシート。そういう物や場面は、読者が思い浮かべることができる。思い浮かべられるものは、感情や記憶の入口になりやすい。
短歌を書く前に、まずは短歌になりそうなものを、短歌にしないまま残しておくとよい。
いきなり五七五七七にしなくてよい。うまく書こうとしなくてよい。きれいな言葉にしなくてよい。意味を説明しようとしなくてよい。むしろ、最初から整えようとすると、素材の生々しさが消えてしまうことがある。
たとえば、次のようなメモでよい。
夜の台所に、誰も使っていないコップが残っていた。
駅のホームに、片方だけの手袋。
通知は来ているのに、まだ開いていない。
洗濯物の一枚だけが乾いていない。
窓の雨の跡が、朝まで残っていた。
言いかけて、やめた言葉があった。
これらは、まだ短歌ではない。五七五七七にもなっていない。言葉としても、完成していない。しかし、それでよい。ここで必要なのは、作品を完成させることではなく、短歌のもとになるものを逃がさないことである。
短歌になる前のメモを残すことは、創作の一部である。
素材集めは、創作以前の準備ではない。歌になる前のものを拾えるかどうかで、あとに出てくる言葉が変わる。最初に拾ったものが粗ければ、あとでどれだけ整えても、作品はぼんやりしやすい。逆に、小さくても確かな素材があれば、そこから言葉を探すことができる。
感情語にまとめる前に、何が見えていたかを書く。
「さびしかった」と書く前に、そのとき部屋に何があったのかを書く。「うれしかった」と書く前に、どんな音が聞こえていたのかを書く。「不安だった」と書く前に、手が何に触れていたのかを書く。感情を否定するのではない。感情を、いきなり名前で片づけないのである。
感情は、しばしば具体物の中に残る。記憶も、具体物の中に残る。身体の感覚も、具体物や場面と結びついて残る。だから素材は、読者の中で感情や記憶が立ち上がるための入口になる。
短歌を書くために、特別な体験を待つ必要はない。
必要なのは、日常を何もないものとして通り過ぎないことである。小さな引っかかりを、なかったことにしないことである。まだ意味のわからない場面を、すぐに説明して消してしまわないことである。
ただし、素材を拾っただけでは、まだ短歌は完成しない。
駅のホームに片方だけの手袋が落ちていた。それは素材である。夜の台所にコップが残っていた。それも素材である。通知を開けなかった。それも素材である。
次に必要なのは、その素材をどう見るかである。
同じ出来事を見ても、そこから生まれる短歌は人によって変わる。素材の珍しさではなく、その素材のどこに引っかかったのかが、作品を変えていく。短歌は、特別な出来事を持っている人だけのものではない。日常の中にある小さなものを見逃さず、それを自分の言葉の入口にできる人のものである。
日常を何もないものとして通り過ぎないこと。
そこから短歌は始まる。
(了)
深水英一郎
次世代短歌

小学生のとき真冬の釣り堀に2回落ちたことがあります。釣れた魚の数より落ちた回数の方が多いです。
テクノロジーの発展によってわたしたち個人の創作活動の幅と深さがどういった過程をたどって拡がり、それが世の中にどんな変化をもたらすのか、ということについて興味があって文章を書いています。その延長で個人創作者をサポートする活動をおこなっています。