前回は、観察とは違いに気づくことである、と書いた。日常の中で、いつもと違うところ、小さく引っかかるところに気づくことが、短歌の入口になる。では、その引っかかりは、一首の中でどのように残るのか。
ここで考えたいのは、感情語を消しても残るものが、その歌の核である、ということである。
感情語とは、「さびしい」「悲しい」「うれしい」「つらい」「かなしい」「好きだ」「苦しい」など、気持ちを直接言う言葉である。これらの言葉は便利である。自分が何を感じていたのかを、すぐにまとめてくれる。説明もしやすい。読む側にも、作者がどのような気持ちを抱いていたのかが伝わりやすい。
だから、感情語を使うこと自体が悪いわけではない。短歌から感情を追い出す必要もない。感情のない短歌がよい短歌なのではない。むしろ、多くの短歌は、何かを感じたところから始まる。問題は、感情語が一首の中心に見えすぎてしまうことである。
「さびしい」と書けば、さびしさは言える。「悲しい」と書けば、悲しさは言える。「うれしい」と書けば、うれしさは言える。しかし、その言葉が強く出すぎると、読者は作者の気持ちだけを受け取ることになる。そこに何があったのか。何を見たのか。どの瞬間に心が動いたのか。何がいつもと違ったのか。そうしたものが、感情語の後ろに隠れてしまうことがある。
短歌では、感情そのものよりも、感情が立ち上がる場所が大事になることがある。さびしいという気持ちそのものではなく、さびしいときに見えていたもの。悲しいという説明ではなく、悲しさを引き起こした場面。うれしいという結論ではなく、うれしさがまだ言葉になる前の身体の動き。そこに、一首の核があることがある。
推敲のとき、まず感情語を一度消してみるとよい。
「さびしい」を消す。「悲しい」を消す。「うれしい」を消す。「つらい」を消す。そのあとに、何が残っているかを見る。何も残らないなら、その歌は感情語だけに支えられている可能性がある。作者の気持ちはある。しかし、読者が入っていける物や場面がまだ足りないのかもしれない。
反対に、感情語を消しても何かが残るなら、そこに歌の核があるかもしれない。夜の台所に置かれたコップ。開けていない通知。雨のあとに濡れたベンチ。片方だけの手袋。冷めた飲みもの。そうした物が残るなら、その物が感情の入口になっている可能性がある。
たとえば、「さびしい夜の台所にコップがひとつある」という文があったとする。ここから「さびしい」を消すと、「夜の台所にコップがひとつある」が残る。もちろん、これだけで短歌として十分とは限らない。しかし、そこにはすでに一つの場面がある。夜である。台所である。コップがひとつだけある。なぜ一つなのか。誰のコップなのか。使われた後なのか、使われないままなのか。読者はそこから何かを感じ始める。
このとき、「さびしい」という言葉は、気持ちの名前である。一方で、夜の台所のコップは、気持ちが宿る場所である。短歌では、ときに後者のほうが強い。感情語を直接置くよりも、感情が読者の中で発生する場所を残したほうが、一首が深くなることがある。
残るものは、物だけではない。場面が残ることもある。
誰もいない駅前。雨のあとに窓へ残った水の跡。返事を待っている時間。言いかけてやめた会話。一人分だけの食器。感情語を消しても、そうした場面が立ち上がるなら、その場面が核になることがある。
「悲しかった」と言えば、悲しみは説明される。しかし、「言いかけてやめた会話」が残るなら、悲しみは読者の中で起こりうる。何を言いかけたのか。なぜやめたのか。相手は気づいたのか。気づかなかったのか。そこには、説明されていない関係がある。短歌は、この説明されていない部分をすべて埋める必要はない。むしろ、すべて埋めないからこそ、読者がそこで立ち止まる。
残るものは、違和感かもしれない。
なぜか気になる。いつもと違う。少し変だと思った。説明できないのに覚えている。こうした違和感は、感情語よりも歌の中心に近いことがある。なぜなら、違和感は、まだ名前のついていない見方だからである。
前回扱った観察は、まさにこの違和感を見つける作業であった。観察とは、ただ細かく見ることではない。日常の中の小さな違いに気づくことである。その違いが、「さびしい」や「うれしい」といった言葉よりも先に、一首の中心を作っていることがある。
いつもならすぐ開く通知を、その日は開かなかった。いつもなら通り過ぎる窓の跡を、その日は見ていた。いつもなら気にしない一人分の食器が、その日は大きく見えた。こうした小さな違いは、まだ感情として整理されていない。しかし、だからこそ短歌の核になりうる。感情語は、あとからその違いに名前をつける言葉である。短歌では、その名前よりも、名前がつく前の違いを残すほうがよい場合がある。
残るものは、関係性かもしれない。
誰かがいた跡。届いているのに開けない通知。一緒にいたはずなのに、少し遠い距離。自分と物との関係。自分と相手との距離。物と場所とのつながり。感情語を消しても、こうした関係性が残るなら、そこが歌の核になることがある。
以前、助詞ひとつで関係性は変わる、と書いた。「君のコップ」と「君とコップ」では、見えてくる関係が違う。「駅に立つ」と「駅で立つ」でも、身体の置かれ方が少し変わる。短歌の中では、小さな言葉が、自分と世界との距離を決める。感情語を消したあとに、まだ関係性が残っているなら、その歌にはすでに中心がある。
たとえば、「会えなくて悲しい」と書くと、悲しみはすぐに伝わる。しかし、「君の椅子だけ壁に寄せてある」と書いたとき、そこには別の種類の強さが生まれることがある。椅子が壁に寄せられている。誰が寄せたのか。なぜそのままなのか。そこにいたはずの人と、今そこにいない人との関係が、物の位置によって見えてくる。感情語はなくても、関係性が残っている。
残るものは、身体感覚かもしれない。
手に残った冷たさ。喉のつまる感じ。足を止めたこと。スマートフォンを伏せた動作。息を吐けなかった感じ。こうした身体の手がかりは、感情語を使わなくても、読者の中に感情を起こすことがある。
「緊張した」と書かなくても、手が冷たいと書けば緊張が伝わることがある。「言えなかった」と書かなくても、息を吸ったまま止まっていたことを書けば、言えなさが伝わることがある。「つらかった」と書かなくても、スマートフォンを伏せた動作があれば、見たくないもの、受け止めきれないものがそこにあったことは伝わりうる。
身体感覚は、感情の奥にある。人は、感情を言葉にする前に、体で反応している。手が止まる。目をそらす。足を止める。息を吐く。背中が固くなる。短歌は短い詩であるから、感情の説明を長く書く余裕はない。そのかわり、身体の小さな反応を置くことで、感情を読者の中に発生させることができる。
ここで大事なのは、感情語を消すことは、感情を消すことではない、という点である。
「さびしい」と書かないから、さびしさがないわけではない。「悲しい」と書かないから、悲しみを隠しているわけでもない。むしろ、感情語を一度外すことで、その奥にある物、場面、違和感、関係性、身体感覚が見えてくる。感情を消すのではなく、感情がどこから生まれているのかを探すのである。
これは、推敲の入口でもある。推敲とは、短歌をきれいにすることではなく、焦点を合わせることである。焦点を合わせるためには、まず何に焦点を合わせるのかを知らなければならない。そのために、感情語を一度消してみる。残ったものを見る。そこに歌の核があるのかを確かめる。
核が見えたら、次にすることは、言葉を選び直すことである。
核に関係のない説明を削る。核が見えるように語順を変える。核に合う助詞を選ぶ。結句に何を残すかを考える。最後の七音で感情語を言うのか、それとも物や場面を残すのか。読み終えたあとに、読者の中で何が残ってほしいのか。そう考えることで、一首の形は少しずつ変わっていく。
たとえば、一首の中に「さびしい」という言葉があり、その奥に「冷めた飲みもの」があるとする。その場合、残すべきなのは「さびしい」なのか、「冷めた飲みもの」なのか。あるいは、両方を置くべきなのか。答えは一つではない。ただし、どちらが核なのかを見ないまま言葉を並べると、一首はぼやける。
「さびしい」が核である場合もある。感情語そのものが必要な場合もある。感情語を置くことで、歌がまっすぐ立つこともある。しかし、感情語だけに頼っているのか、それとも感情語の奥に場面があるのかは、分けて考えたほうがよい。感情語を消す作業は、その見分けのために行うのである。
自分の歌を読み返すときは、いくつかの問いを持つとよい。感情語を消しても、物や場面は残るか。感情語を消しても、違和感は残るか。感情語を消しても、関係性は見えるか。感情語を消しても、身体感覚は残るか。この歌で最後まで残したいものは何か。その核に関係のない説明はどれか。核が読者に見えるように、どの言葉を残すべきか。核を結句に置くべきか、それとも途中に置くべきか。
これらの問いは、正解を一つに決めるためのものではない。自分の歌が何に支えられているのかを見るためのものである。短歌は短い。だから、一首の中に置けるものは限られている。限られているからこそ、何を残すかが重要になる。
感情語は、気持ちをすぐにまとめてくれる。だから便利である。しかし、便利な言葉は、ときに歌の中心を早く決めすぎてしまう。短歌では、気持ちの名前を急いでつける前に、その気持ちの奥にあるものを見る必要がある。
さびしいとき、何が見えていたのか。悲しいとき、どの場面が残っているのか。うれしいとき、体はどう動いたのか。つらいとき、何を見ないようにしたのか。そこに、歌の核があることがある。
感情語を消しても残るものが、その歌の核である。
その核は、物かもしれない。場面かもしれない。違和感かもしれない。関係性かもしれない。身体感覚かもしれない。大事なのは、感情を消すことではない。感情の奥にあるものを見つけることである。
核が見えたら、次に考えるのは、その核をどの形に入れるかである。短歌には、五七五七七という定型がある。定型は、言葉をただ短くするための枠ではない。核を残すために、どの言葉を選び、どの言葉を捨てるかを考えさせる装置である。次回は、その定型を、自由を奪うものではなく、言葉を選ばせるものとして考える。
(了)
深水英一郎
次世代短歌

小学生のとき真冬の釣り堀に2回落ちたことがあります。人生で釣れた魚の数より落ちた回数の方が多いです。
そんなわたしですが、テクノロジーの発展によってわたしたち個人の創作活動の幅と深さがどういった過程をたどって拡がり、それが世の中にどんな変化をもたらすのか、ということについて興味があって文章を書いています。その延長で個人創作者をサポートする活動をおこなっています。