初心者の短歌が説明文になる理由——伝えようとしすぎると詩は閉じてしまう [#022]

前回は、短歌は作者の中で終わらず、読者の中で立ち上がる、と書いた。短歌は、作者の気持ちをそのまま説明しきるものではない。選ばれた言葉が読者に渡され、読者の記憶や感覚や感情の中で、もう一度動き出す。そのとき、短歌は作品として働きはじめる。

では、なぜ初心者の短歌は説明文になりやすいのか。

ここで考えたいのは、伝えようとしすぎることが、かえって短歌を閉じてしまう場合がある、ということである。

初心者の短歌が説明文になるのは、怠けているからではない。雑に書いているからでもない。むしろ逆である。伝えたいことがあるから、説明したくなる。読者にわかってもらいたいから、背景を入れたくなる。気持ちを誤解されたくないから、「悲しい」「さびしい」「うれしい」「つらい」といった感情語を置きたくなる。

それは自然なことである。短歌を書きはじめた人は、自分の中にある出来事や感情を、どうにか言葉にしようとする。せっかく書くのだから、正しく伝わってほしい。なぜそう思ったのか、どんな状況だったのか、どれほど強い気持ちだったのか、読者にわかってほしい。だから、理由を書く。背景を書く。感情を書く。最後に結論を書く。

しかし、そこに短歌の難しさがある。意味はわかりやすくなる。けれど、詩としては閉じてしまうことがある。

説明文は、意味を正確に伝えるための文章である。何が起きたのか。なぜそうなったのか。書き手は何を思ったのか。結論は何なのか。それらを誤解なく伝えることが、説明文の役割である。だから、説明文においては、理由や背景や結論が明確であることは大切である。

それ自体は悪いことではない。説明文は説明文として必要である。日記にも、報告にも、案内にも、評論にも、説明の力は欠かせない。問題は、短歌が説明文と同じ働きだけでできているわけではない、という点である。

短歌は、意味を伝えるだけの形式ではない。短歌は、読者の中に感覚や感情を発生させる言葉である。だから、作者が意味をすべて閉じてしまうと、読者が入る場所が少なくなる。読者は感じる前に、作者の説明を受け取るだけになってしまう。

たとえば、「友人から返事がなくて、とてもさびしかった」という一文がある。これは意味としてはよくわかる。何が起きたのかも、なぜさびしいのかも、作者の気持ちも伝わる。けれど、このまま短歌に入れると、読者は「作者はさびしかったのだな」と理解して終わりやすい。

ここに、読者が見るものは少ない。スマートフォンの画面も、通知の来ない時間も、机の上の暗さも、指の動きも、夜の静けさも、まだ置かれていない。作者の感情は書かれているが、その感情が読者の中で立ち上がるための手がかりが少ないのである。

短歌では、説明を減らす代わりに、手がかりを置く。手がかりとは、読者が場面や感情を受け取るための物、動作、言葉のことである。具体物を置く。場面を置く。動作を置く。助詞で関係を作る。結句で出口を作る。そして、すべてを言い切らず、余白を残す。

余白とは、何も書かない空白のことではない。読者が想像し、感じ取れるすきまのことである。そのすきまは、単なる不足ではない。読者に渡すための場所である。

ただし、ここで誤解してはならない。説明を減らすことと、読者に丸投げすることは違う。何もわからない言葉を並べて、「あとは自由に感じてください」とすることが短歌なのではない。読者が入るには、入口が必要である。読者が見えるもの、触れられるもの、関係を感じられる言葉が必要である。説明を削ったあとに何も残らないなら、それは余白ではなく空洞である。

初心者の短歌が説明文になりやすい型はいくつかある。

ひとつ目は、出来事説明型である。何が起きたかを順番に並べて、そのまま終わる型である。朝起きた。駅に行った。雨が降った。友人に会った。別れた。さびしかった。こうした流れは、日記や報告としては自然である。けれど短歌では、出来事の順番がそのまま並ぶだけでは焦点がぼやけやすい。一首の中心が、どこにあるのか見えにくくなる。

短歌は短い。短い詩に、出来事の全部を入れることはできない。だから、何が起きたかをすべて説明するのではなく、その出来事のどこに光を当てるのかを決める必要がある。駅の改札なのか、濡れた靴なのか、相手の傘なのか、別れたあとのホームなのか。出来事そのものより、どこを見るかが歌を動かす。

ふたつ目は、感情説明型である。「悲しい」「さびしい」「うれしい」「苦しい」といった感情語で一首を閉じてしまう型である。感情語が悪いわけではない。必要な場面もある。しかし、感情語だけで一首が支えられている場合、その語を消すと何も残らなくなることがある。

「さびしい」と書けば、作者がさびしいことは伝わる。けれど、読者がさびしさを感じるとは限らない。読者が感じる前に、作者が感情の名前を言い切ってしまうからである。読者の中にさびしさを立ち上げたいなら、そのとき見えていたもの、そのとき手がしていた動き、その場にあった沈黙を置く必要がある。

三つ目は、理由説明型である。「から」「ので」「だから」といった言葉によって、なぜそう感じたのかを説明しすぎる型である。もちろん、理由をまったく書いてはいけないわけではない。しかし、理由が前に出すぎると、短歌は理屈に寄っていく。読者は場面を見るより先に、作者の説明を理解することになる。

短歌において、理由はしばしば言いすぎになる。なぜなら、感情の理由は、必ずしも論理で説明されるものではないからである。ある物を見た瞬間に、急に思い出すことがある。何でもない音が、過去の時間を連れてくることがある。理由を言い切るより、その瞬間の物や場面を置いたほうが、読者に届く場合がある。

四つ目は、結論説明型である。最後に意味や教訓をまとめてしまう型である。「だから人生は大切だ」「やはり母は偉大だ」「人はひとりでは生きられない」といったまとめは、文章としてはわかりやすい。けれど、短歌の結句に置くと、読後感が作者の判断で閉じてしまうことがある。

結句は、短歌の出口である。出口で意味をまとめすぎると、読者の中に残る余韻が狭くなる。結句には、結論を言う力もあるが、余韻を残す力もある。どちらを選ぶかによって、一首の読後感は大きく変わる。

では、説明文から短歌へ近づくためには、何を見ればよいのか。

まず、自分の歌が出来事の報告で終わっていないかを見る。何が起きたかを順番に並べただけになっていないか。一首の中で、どこに焦点があるのか。読者は何を見ればよいのか。

次に、感情語を消しても、物や場面が残るかを見る。「悲しい」「さびしい」「うれしい」を消したとき、そこに何が残るか。スマートフォンが残るのか。駅のベンチが残るのか。食べかけのパンが残るのか。何も残らないなら、その歌は感情の名前に頼りすぎている可能性がある。

さらに、理由を説明しすぎていないかを見る。「から」「ので」「だから」が多いとき、作者は読者を納得させようとしているかもしれない。けれど、短歌で必要なのは、いつも納得ではない。読者がその場面に入り、何かを感じ取れることである。

背景を全部入れようとしていないかも確認したい。短歌には、すべての事情を入れるだけの広さはない。誰と誰がどのような関係で、いつから何があり、なぜその言葉が出てきたのか。そうした背景をすべて入れようとすると、一首は説明でいっぱいになる。背景を全部入れなくても、読者が入れる一点を置けばよい場合がある。

最後に、結句で意味をまとめすぎていないかを見る。最後の七音が、感想や教訓になっていないか。読者が感じる前に、作者が答えを言っていないか。結句を少し開くことで、歌全体が動き出すことがある。

説明を短歌に近づける最初の手順は、難しく考えなくてよい。まず、説明的な一文を書く。「友人から返事がなくて、とてもさびしかった」。次に、感情語と理由に線を引く。「返事がなくて」「さびしかった」。そのうえで、読者が見える名詞を探す。スマートフォン。通知。画面。夜の机。充電器。指。既読のつかない吹き出し。

そこから、説明を一つ削り、名詞を残してみる。「夜の机に、開かない通知の画面がある」。これはまだ完成した短歌ではない。五七五七七にもなっていない。しかし、説明から場面へ少し移動している。作者の「さびしかった」という説明が消え、その代わりに、読者が見られるものが置かれている。

この移動が重要である。短歌は、最初から整った一首として生まれるとは限らない。まず説明があり、その説明の中から、物や場面や動作を見つける。理由を少し削る。感情語を少し遠ざける。結論を急がない。そのかわりに、読者が入れる手がかりを残す。

初心者の短歌が説明文になるのは、伝えようとする気持ちが強いからである。そこには、不安もある。親切さもある。誤解されたくないという思いもある。だから、それを単純に否定する必要はない。

ただし、短歌では、説明しきることが必ずしも読者に届くことではない。理由、背景、感情、結論をすべて言うほど、意味は明確になる。しかし、読者が感じる場所は少なくなることがある。

短歌は、作者の中にあったものを、読者の中で立ち上がるように渡す詩である。そのためには、説明を増やすだけでは足りない。読者が見える具体物を置く。場面を置く。動作を置く。関係を作る。出口を選ぶ。余白を残す。

説明文から短歌へ近づく最初の手がかりは、読者が見える言葉である。

次に考えたいのは、名詞は短歌の中に置く小さな照明である、ということである。

(了)


深水英一郎
次世代短歌

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