日常は、そのままでは短歌にならない——出来事ではなく、反応の残った場面を見つける [#027]

日常は、短歌の素材になる。これは、前回述べた「短歌のタネ」を考えるうえで、いちばん大切な入口のひとつである。けれども、ここで一つ注意しておきたいことがある。日常は短歌の素材になるが、日常をそのまま書いただけでは、短歌にはなりにくい。

朝起きた。駅へ行った。仕事をした。昼に弁当を食べた。帰りにスーパーへ寄った。雨が降っていた。部屋を片づけた。

これらは、たしかに生活の中にある出来事である。嘘ではない。特別なことを書こうとしていないぶん、短歌の入口としてはむしろよい。しかし、このまま並べるだけでは、多くの場合、日記や記録に近づく。日記や記録が悪いのではない。日記は、日々を残すために大切なものだ。だが、短歌は、起きたことを順番に報告するための形式ではない。

短歌で見るべきものは、「何が起きたか」だけではない。むしろ大事なのは、その出来事のどこに自分の反応が残ったかである。

同じ駅へ行くにも、ただ「駅へ行った」と書けば記録になる。けれども、帰りたくない日だけ駅の売店の光が明るく見えた、となれば、そこには反応がある。駅という場所そのものではなく、その日の自分にだけ起きた見え方の変化がある。いつもの場所が、いつもとは違って見えた。その小さなずれが、短歌のタネになる。

雨についても同じである。「雨が降っていた」は、天気の記録である。そこから一歩進んで、傘を閉じたあとも手のひらに雨の冷たさが残っていた、と書くと、雨はただの天気ではなくなる。雨という出来事が、身体に残った感覚へ移る。読者は、雨そのものよりも、手のひらに残る冷たさを通して、その場面に近づくことができる。

日常を短歌にするとは、日常を大げさに飾ることではない。平凡な出来事を、無理に特別な事件に見せることでもない。大切なのは、一日の中から、自分の内側に少し残ったものを見つけることである。なぜか気になったもの。いつもと違って見えたもの。少し返事が遅れた場面。捨てるはずだったのに、捨てられなかったもの。そこに、短歌になる前の小さな核がある。

たとえば、「昼にコンビニで弁当を買った」というだけなら、これは生活の記録である。しかし、店員に「温めますか」と聞かれて、今日は返事が少し遅れた、と書くと、そこに一つの場面が生まれる。なぜ返事が遅れたのかを、すべて説明する必要はない。疲れていたのかもしれない。別のことを考えていたのかもしれない。温めるという小さな問いに、自分の生活の重さが少し触れたのかもしれない。短歌のタネは、このような小さな出来事の中にもある。

「部屋を片づけた」も、そのままでは記録である。けれども、捨てるつもりの紙袋を、また棚の奥へ戻した、と書けば、そこには行動の中に残った感情がある。紙袋そのものは、何でもないものかもしれない。しかし、捨てるつもりだったのに戻したという動作には、まだ整理されていない記憶やためらいが含まれている。短歌は、そうした言い切れないものを、具体的な物や行動に預けることができる。

ここで重要なのは、一日の全部を歌にしようとしないことである。短歌は短い。三十一音前後の器に、一日の出来事をすべて入れることはできない。無理に入れようとすると、朝から夜までを急いで説明するだけになってしまう。すると、読者の中には何も残りにくい。

何を書くかを決めることは、何を書かないかを決めることでもある。短歌では、出来事の全体よりも、一点を選ぶ力が必要になる。駅へ行った一日を書くのではなく、売店の光を書く。雨の日を書くのではなく、手のひらに残った冷たさを書く。買い物を書こうとするのではなく、買わなかった桃の匂いを書く。片づけを書こうとするのではなく、棚の奥へ戻した紙袋を書く。

この一点は、必ずしも劇的でなくてよい。むしろ、日常詠においては、小さすぎて見逃してしまうようなもののほうが、強い入口になることがある。大きな事件は、それ自体が目立つ。けれども、いつもの生活の中にある小さな違和感は、作者が気づかなければ通り過ぎてしまう。だからこそ、そこに作者固有の反応が残る。

短歌のタネを探すときは、まず「今日は何があったか」と考えてよい。ただし、そこで止まらないほうがよい。次に、「その中で、なぜか気になったものは何か」と考える。さらに、「それはなぜ気になったのか」と自分に聞いてみる。答えがはっきりしなくてもよい。むしろ、はっきりしないまま残っているもののほうが、短歌には向いている場合がある。

たとえば、今日あったことが「帰りにスーパーへ寄った」だとする。その中で気になったものが「買わなかった桃」だったとする。なぜ気になったのかと考えると、何度も見たのに、結局かごに入れなかったからだとわかる。そこから、「買わなかった桃の匂いだけ、帰り道まで残っていた」というメモが生まれる。

これは、まだ短歌ではない。五七五七七にもなっていない。しかし、短歌のタネには近づいている。なぜなら、そこには出来事の報告ではなく、反応の残った場面があるからである。スーパーへ寄ったという日常が、買わなかった桃という具体物に絞られ、その匂いが帰り道まで残るという感覚に変わっている。

日常を短歌にするためには、毎日を特別にしようとする必要はない。必要なのは、いつもの生活の中で、自分が少し立ち止まった場所を見つけることである。見たもの、触れたもの、聞こえた音、言いかけてやめた言葉、いつもより遅れた返事、なぜか捨てられなかったもの。そうした小さな反応が、日常をただの記録から短歌のタネへ変えていく。

日常は、そのままでは短歌にならない。けれども、日常の中には、短歌になりうるものが無数にある。違いは、出来事そのものにあるのではない。そこに自分の反応が残っているかどうかである。

次に見るべきものは、身体である。日常の中で何かが残るとき、それはしばしば身体感覚として現れる。冷たさ、重さ、におい、痛み、眠さ、息苦しさ、指先の感触。身体に残ったものは、短歌にとって強い素材になる。

(了)


深水英一郎
次世代短歌

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