素材は、どうすれば短歌になるのか──見ることが短歌を生み出す [#028]

短歌を書こうとして素材を集め始めると、多くの人が次の壁にぶつかる。

気になった場面はある。メモも増えてきた。しかし、それが短歌にならないのである。

これは、ごく自然なことである。

前回、日常はそのままでは短歌にならないと書いた。日常は素材にはなるが、そのまま作品になるわけではない。

では、素材は、どうすれば短歌になるのだろうか。

答えは、素材そのものではなく、その素材をどう見たかにある。

雨が降った。

猫が寝ていた。

電車が遅れた。

コーヒーをこぼした。

どれも素材にはなる。しかし、このままでは単なる出来事の報告でしかない。

短歌が生まれるのは、「何が起きたか」を書いたときではなく、「その出来事のどこに、自分の目が止まったか」が見えたときである。

同じ夕焼けを見ても、赤く染まった空に目を奪われる人もいれば、帰る鳥に気づく人もいる。窓ガラスに映った光を見つめる人もいれば、夕焼けなのに寒く感じた風を覚えている人もいる。

素材は同じでも、歌はまったく違う。

違いを生み出しているのは、世界ではない。

世界を見た、その人の認識である。

短歌では、何を見るか以上に、どこを見たかが重要になる。

だから、「良い素材を探そう」と考えるより、「なぜ自分はそこが気になったのだろう」と考えた方が、歌に近づいていく。

たとえば、信号待ちをしていたとする。

素材としては、それだけで終わってしまう。

しかし、「青になった瞬間より、一人だけ動かなかった人が気になった」のかもしれない。

あるいは、「風に揺れる街路樹ばかり見ていた」のかもしれない。

あるいは、「赤信号の時間だけ妙に長く感じた」のかもしれない。

出来事は同じでも、歌の入口はすべて違う。

短歌とは、その違いを書き始める芸術なのである。

ここで大切なのは、「正しい見方」を探さないことである。

素材には正解がない。

見方にも正解はない。

あるのは、「自分はどこに引っかかったのか」という事実だけである。

その引っかかりは、小さな違和感かもしれない。

少し笑ってしまったことかもしれない。

説明できない懐かしさかもしれない。

あるいは、自分でも理由が分からないまま、なぜか忘れられない場面なのかもしれない。

短歌は、その小さな引っかかりを丁寧に見つめるところから始まる。

だから、急いで意味を書こうとしなくてよい。

「これは寂しかった。」

「人生について考えた。」

「幸せを感じた。」

そう説明してしまうと、読者は作者の答えを読むだけになってしまう。

短歌は、答えを書くものではない。

読者が作品の中で、自分自身の答えを見つけられるようにする詩である。

そのためには、意味を増やすよりも、「見えたもの」を丁寧に置くことの方が大切になる。

まずは、自分が何を見たのか。

何に立ち止まったのか。

その一点を見つけるだけで、素材は少しずつ短歌へ近づき始める。

今日からできる簡単な練習がある。

一つだけ素材を選んでみよう。

散歩でも、通勤でも、家の中でも構わない。

そして、その素材について、「なぜ気になったのか」を三通り考えてみるのである。

同じ出来事でも、違う理由が見つかるはずだ。

その中で、「これが一番、自分らしい」と感じる見方を選ぶ。

まだ短歌にはしなくてよい。

今は、素材を見る目を育てることの方が大切だからである。

短歌は、素材から生まれるのではない。

素材に向けられた認識から生まれる。

そして、その認識こそが、一首ごとの個性になっていく。

次回は、その認識を支えるもう一つの大きな素材である「記憶」について考えていこう。


ワーク:一つの素材を三回見る

1. 日常の素材を一つ選ぶ
2. 「なぜ気になったのか」を三通り書いてみる
3. 一番自分らしい見方を一つ選ぶ
4. まだ五七五七七にはしない

(了)


深水英一郎
次世代短歌

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