「さびしい」と書く前に、さびしいときに見えていたものを書く──感情を直接言わずに立ち上げる [#006]

前回は、よい短歌は出来事ではなく見方で決まる、と書いた。

同じ出来事でも、どう見るかによって歌の方向は変わる。夜の台所にコップが残っている、というだけなら、それは片づけ忘れかもしれない。しかし、それを「誰かがそこにいた跡」と見るなら、そこには不在の気配が生まれる。一日の終わりに取り残されたものとして見るなら、時間の重さが出てくる。

では、その見方は感情とどう関わるのか。

ここで考えたいのは、「さびしい」と書く前に、さびしいときに見えていたものを書く、ということである。

短歌を書こうとすると、多くの場合、まず感情が出てくる。さびしい。悲しい。うれしい。つらい。不安だ。会いたい。忘れられない。そうした気持ちがあるから、書きたくなる。感情は、短歌の入口になる。

ただし、感情があることと、その感情が短歌として読者に届くことは同じではない。

「さびしい」と書けば、作者がさびしいことは伝わる。読み手は、作者がそういう状態にあるのだと理解できる。けれど、それだけで読み手の中にさびしさが生まれるとは限らない。

ここに、感情を説明することと、感情を発生させることの違いがある。

以前、この連載では、詩は説明ではなく発生させる言葉である、と書いた。感想文は、感じたことを説明する。詩は、読んだ人の中に感じることが起きるように言葉を置く。短歌も同じである。作者が「さびしい」と説明するだけではなく、読者の中にさびしさが立ち上がるように、言葉を置く必要がある。

もちろん、感情語を書くこと自体が悪いわけではない。

「さびしい」「悲しい」「うれしい」「つらい」という言葉は、気持ちを伝えるための大切な言葉である。短歌の中で感情語が強く働くこともある。感情をまったく言わない歌だけが優れている、という話ではない。

問題は、感情語だけで一首が閉じてしまうことである。

「私はさびしかった」と書けば、意味はわかる。しかし、読者はそこで受け取るだけになる。作者の気持ちは説明されているが、読者が自分の中で感じる場所が少ない。作者が感情の名前を先に言い切ってしまうと、読者はその感情に入る前に、答えだけを渡されることがある。

だから短歌では、気持ちを直接言う前に、その気持ちのときに何が見えていたのかを見る。

さびしいとき、部屋には何があったのか。どんな光だったのか。どんな音がしていたのか。手は何をしていたのか。体はどこにあったのか。誰の言葉が残っていたのか。何を見ないようにしていたのか。

感情は、頭の中だけにあるわけではない。感情が起きているとき、人は何かを見ている。何かに触れている。何かを避けている。何かを聞いている。あるいは、何も起きていないような部屋の中にいる。

たとえば、「さびしい」と書く代わりに、夜の台所に残ったコップを書くことができる。返信のない画面を書くことができる。一人分だけの椅子を書くことができる。消し忘れた廊下の明かりを書くことができる。

それらの物そのものに、さびしさがあるわけではない。コップはただのコップである。画面はただの画面である。椅子はただの椅子である。けれど、ある感情の時間に見えていたものとして置かれると、それらは感情の入口になる。

夜の台所に、誰も使っていないコップが残っていた。

この一文には、「さびしい」という言葉はない。それでも、誰かの不在、一日の終わり、使われなかった時間のようなものが立ち上がる可能性がある。読者は、自分の記憶の中にある台所やコップや夜を使って、その場面を受け取る。そこに、作者が説明しきらなかった感情が生まれる余地がある。

不安も同じである。

「返信を見るのが不安だった」と書けば、意味はわかる。しかし、伏せたスマートフォン、開かない通知、何度も見た時計、冷めた飲みものを書くと、不安は別の形で立ち上がる。読者は、不安という言葉を読むのではなく、不安が起きている場面を読むことになる。

うれしさも同じである。

「とてもうれしかった」と書くことはできる。しかし、帰り道の明るさ、いつもより軽い鞄、脱いだ上着の袖口、何度も読み返した短いメッセージを書くことで、うれしさは読者の中に生まれることがある。感情語を使わないから、感情が弱くなるとは限らない。むしろ、感情の名前を言わないことで、その感情が読者の中で自分のものとして動きはじめることがある。

ここで大切なのは、感情を隠すことと、感情を消すことは違う、ということである。

感情語を使わないと、気持ちがなくなってしまうように感じるかもしれない。けれど、感情語を減らすことは、感情そのものを消すことではない。感情の入口を変えるのである。

「さびしい」と直接言う代わりに、さびしさの時間に見えていたものを置く。「不安だ」と言う代わりに、不安なときの手の動きや、見ないようにした画面を置く。「うれしい」と言う代わりに、うれしさのあとに変わって見えた帰り道を置く。

感情を、言葉の名前から、物や場面や身体感覚へ移すのである。

ただし、具体物を書けば何でも短歌になるわけではない。

コップ、通知、椅子、上着、窓、手袋、時計。こうした物は、感情の入口になりうる。しかし、ただ物を並べればよいわけではない。その物が、どの時間に、どの位置に、どの見方で置かれているのかが重要である。

同じコップでも、片づけ忘れとして見るのか、誰かの不在として見るのか、一日の終わりに残されたものとして見るのかで、歌の温度は変わる。同じ通知でも、単なる連絡として見るのか、まだ向き合いたくないものとして見るのか、関係の重さとして見るのかで、感情の出方は変わる。

だから、ここでも前回の「見方」が関わってくる。

感情語を書く前に、何を見ていたのかを見る。そして、それをどう見ていたのかを確かめる。出来事そのものではなく、その出来事や物が自分にどう見えていたのかを見る。そこに短歌の核が生まれることがある。

実際に書くときは、難しく考えすぎなくてよい。まず、感情語を一つ選ぶ。「さびしい」でも、「悲しい」でも、「うれしい」でも、「不安」でもよい。次に、その感情のときに見えていた物を三つ書いてみる。部屋にあったもの、手に持っていたもの、画面に出ていたもの、窓の外にあったもの。さらに、そのとき聞こえていた音を一つ思い出す。冷蔵庫の音、通知音、遠くの車の音、誰かの足音。最後に、身体が何をしていたかを見る。スマートフォンを伏せた。コップを洗わずに置いた。鞄を持ったまま立っていた。何度も時計を見た。

そのあとで、感情語を使わずに一文を書いてみる。

夜の台所に、誰も使っていないコップが残っていた。

通知の光だけを伏せて、机の端に置いた。

帰り道だけが、いつもより少し明るく見えた。

この段階では、まだ五七五七七に整えることを急がなくてよい。まずは、感情を説明する言葉から離れて、感情が起きていた条件を置いてみる。物、場面、音、動作、身体感覚。その中に、歌の入口があるかどうかを見る。

短歌は、感情をそのまま叫ぶためだけの器ではない。感情を冷たく抑え込むための形式でもない。自分の中にあった感情を、読者の中でもう一度起きるように、小さな言葉の構造へ移す詩である。

だから、「さびしい」と書きたくなったとき、すぐにその言葉を捨てなくてもよい。まずは書いてよい。けれど、そこで終わらせない方がよい。

そのさびしさのとき、何が見えていたのか。何が聞こえていたのか。手は何をしていたのか。部屋には何が残っていたのか。見ないようにしていたものは何か。

感情語を一度消しても、なお残るものがあるなら、そこに歌の核があるかもしれない。

次に必要なのは、その核がもっとよく見えるように、言葉の焦点を合わせることである。短歌を直すとは、きれいな言葉に飾ることではない。一首の中で何を立ち上げようとしているのかを見つけ、その中心に向かって言葉を整えていくことである。

次回は、その作業を推敲として考える。

(了)


深水英一郎
次世代短歌

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