推敲とは、短歌をきれいにすることではなく焦点を合わせることである──直すことを怖がらないために [#007]

前回は、「さびしい」と書く前に、さびしいときに見えていたものを書く、という話をした。

感情を直接説明するのではなく、その感情のときに見えていた物や場面や身体感覚を書く。そうすることで、読者の中に感情が立ち上がることがある。「さびしい」と言い切るよりも、夜の台所に残った使われていないコップを書く方が、かえってさびしさに近づくことがある。

では、そのようにして書いた一首を、どう直せばよいのか。

ここで考えたいのが、推敲である。

推敲という言葉には、少し硬い印象がある。書いたものを厳しく直すこと。間違いを見つけること。もっと上手な言葉に置き換えること。そういう作業として受け取られやすい。

そのため、初心者にとって推敲は怖いものになりやすい。せっかく書いたものを否定されるように感じる。最初にあった気持ちが、直しているうちに消えてしまうようにも感じる。自分の言葉を、自分で壊してしまうような不安もある。

しかし、推敲とは、失敗した歌を救済する作業ではない。

推敲とは、書いたあとで、自分が本当は何を書こうとしていたのかを見つけ直す作業である。

最初に書いた言葉は、まだ混ざっていることが多い。出来事、説明、感情、理由、背景、言い訳、きれいに見せたい言葉。それらが一首の中に一緒に入っている。書いた本人には全部必要に見える。なぜなら、その出来事の前後を知っているからである。

しかし、読者が読むのは、そこに書かれた言葉だけである。作者の事情や、書く前の気持ちや、その日の長い流れを読者は知らない。だからこそ、一首の中で何を見せるのかを決める必要がある。

推敲とは、短歌をきれいな言葉で飾ることではない。

きれいな言葉を足せば、短歌がよくなるわけではない。むしろ、きれいな言葉が一首の焦点をぼかすことがある。美しい言い回し、雰囲気のある言葉、詩らしく見える言葉。それらは一見、作品を高めているように見える。しかし、その言葉が本当に必要でなければ、歌の中心から読者の目をそらしてしまう。

短歌に必要なのは、飾ることよりも、何を見せたいかをはっきりさせることである。

ここでいう焦点とは、一首の中で読者にいちばん見てほしいところである。

それは、出来事全体ではない。たとえば、誰かと会って、話して、別れて、帰ってきた一日全体があるとしても、一首に入るのはそのすべてではない。別れ際の手の動きかもしれない。帰り道の駅の明るさかもしれない。家に着いたあと、まだ脱いでいない上着かもしれない。

焦点は、感情そのものとも少し違う。

「さびしい」「かなしい」「うれしい」「不安だ」といった感情は、短歌の出発点になる。しかし、その感情をそのまま置くだけでは、読者は作者の説明を受け取るだけになりやすい。焦点になるのは、その感情が立ち上がる入口である。何を見たときに、さびしさが生まれたのか。どの場面で、不安が形を持ったのか。どの動作に、うれしさが残っていたのか。

焦点は、物であることもある。場面であることもある。動作であることもある。あるいは、言葉の選び方そのものが焦点になることもある。

推敲では、いきなり削り始めない方がよい。

短歌は短いので、直そうとすると、すぐに削りたくなる。説明を削る。感情語を削る。余分な情報を削る。それ自体は大切な作業である。しかし、何を残すのかを決めないまま削ると、歌の大事な部分まで消してしまうことがある。

まず見るべきなのは、この一首で何を残したいのかである。

場面を残したいのか。感情の入口を残したいのか。ものの見方の変化を残したいのか。ある一つの物を読者に見せたいのか。最後に、どんな感覚を読者の中に残したいのか。

この問いを持つだけで、推敲は変わる。

直すとは、何となく上手にすることではない。自分の歌の中心に近づくことである。中心が見えれば、残す言葉と、外してよい言葉が少しずつ分かってくる。

説明は、読者を助けることがある。何もかも削ればよいわけではない。状況がまったく分からなければ、読者は歌の中に入れない。だから、説明はすべて悪いものではない。

ただし、説明が多すぎると、焦点はぼやける。

なぜそう感じたのか。どういう経緯だったのか。自分は何を思ったのか。どれほど強く感じたのか。それらを全部言おうとすると、一首は説明文に近づいていく。作者の意味づけが前に出すぎて、読者が感じる場所がなくなる。

説明を削るとは、意味をなくすことではない。見せたいものを見えやすくすることである。

たとえば、「私はとてもさびしかった。夜の台所に、誰も使っていないコップが残っていた」と書いたとする。この文には、感情の説明と場面が両方ある。ここで「私はとてもさびしかった」を一度外してみる。すると、「夜の台所に、誰も使っていないコップが残っていた」という場面が前に出る。

もちろん、これだけで必ずよくなるわけではない。感情語を残した方がよい場合もある。だが、一度消してみることで、その歌が何によって立っているのかが見えやすくなる。

感情語は便利である。

「さびしい」と書けば、作者の気持ちはすぐに示せる。「悲しい」と書けば、読者はその歌の感情の方向を理解できる。「うれしい」と書けば、明るい気持ちは伝わる。

しかし、便利な言葉は、作品を早く閉じてしまうことがある。

推敲では、感情語を一度消して読んでみるとよい。消したあとに、物や場面や身体感覚が残るかを見る。何かが残るなら、そこに歌の核があるかもしれない。逆に、感情語を消したとたんに何も残らないなら、その歌にはまだ具体的な足場が足りないのかもしれない。

これは、感情語を必ず削るべきだという意味ではない。

「さびしい」という言葉が必要な歌もある。「かなしい」と言い切ることで届く歌もある。大切なのは、感情語を使うか使わないかではない。その言葉が、一首の焦点をはっきりさせているかどうかである。

推敲では、大きく書き直すことだけを考えなくてよい。

短歌では、小さな言葉が一首の向きを変える。助詞ひとつで、物と人との関係が変わる。「が」と「は」では、読者の見る場所が変わる。「を」と「に」では、対象への触れ方が変わる。

語順も大きい。最初に何を置くかによって、読者が歌に入る入口が変わる。最後に何を置くかによって、読後に残るものが変わる。

結句、つまり短歌の最後の七音も、一首の出口として働く。そこで説明して閉じるのか。物を置いて余韻を残すのか。視点を少し変えるのか。結句を変えるだけで、同じ素材の歌がまったく違って読まれることがある。

ただし、ここで大事なのは、助詞や語順や結句の細かい技術を一度に覚えることではない。

今は、推敲とは焦点を合わせる作業だと考えればよい。助詞を変えるのも、語順を変えるのも、結句を変えるのも、そのためである。一首の中で何を見せたいのか。その見せたいものに、言葉が向かっているか。それを見るのが推敲である。

直すと、最初の気持ちが壊れてしまうように感じることがある。

最初に書いた言葉には、勢いがある。迷いながらも、そのときの感情がそのまま入っているように思える。だから、あとから言葉を削ったり、順番を変えたりすると、最初の生々しさが失われるように感じる。

しかし、推敲は最初の気持ちを消す作業ではない。

むしろ、最初に感じたものが読者に届くように、言葉の通り道を整える作業である。

感情が強いときほど、人は説明したくなる。理由を言いたくなる。どれほど強く感じたかを書きたくなる。だが、短歌では、その説明がかえって感情を遠ざけることがある。不要な説明を削り、場面を前に出すことで、読者の中に感情が強く立ち上がることがある。

推敲は、感性の敵ではない。

感性だけでは、作品はまだ読者に届く形になっていないことがある。感じたことを素材として拾い、見方を与え、言葉を選び、形式の中に置く。その過程で、最初の感情は失われるのではなく、作品として立ち上がる形に変わっていく。

だから、推敲を怖がりすぎなくてよい。

推敲とは、自分の歌を否定することではない。書いた言葉の中から、その歌が本当に向かおうとしている場所を探すことである。まだぼんやりしているものに、焦点を合わせることである。

そのためには、まず何を残したいのかを見る。説明を一度外してみる。感情語を一度消してみる。物や場面が残るかを見る。語順を変えてみる。最後の言葉を別の形にしてみる。

そうして、一首の中で読者にいちばん見てほしいものが、少しずつ前に出てくる。

推敲とは、短歌をきれいな言葉で飾ることではない。一首が何を立ち上げようとしているのかを見つけ、その焦点に合わせて言葉を選び直すことである。

では、その言葉を選び直すとき、五七五七七という形はどのように働くのか。

短歌の定型は、言葉を不自由に閉じ込めるだけのものではない。むしろ、限られた形があるからこそ、どの言葉を残し、どの言葉を削り、どこに置くのかを考えることになる。

次に考えたいのは、五七五七七は、言葉を閉じ込める檻ではない、ということである。

(了)


深水英一郎
次世代短歌

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