感情を言いすぎると、読者の感じる場所がなくなる──読者に渡すための余白 [#011]

前回は、短歌を書くとは、思ったことをそのまま並べることではなく、選び、置き、削ることだと書いた。

では、最初に何を削るべきなのか。もちろん、答えは一つではない。余分な説明を削ることもあれば、場面を散らかしている情報を削ることもある。言葉の順番を変えるだけで、削らなくても歌が締まることもある。

しかし、初心者がとくにつまずきやすいものがある。それは、感情をどこまで言うか、という問題である。

短歌では、感情を強く持つことと、感情を全部言うことは同じではない。むしろ、感情を言いすぎることで、読者の感じる場所がなくなることがある。

ここを誤解してはならない。感情がいけない、という話ではない。感情は、短歌の大切な出発点である。

うれしい。悲しい。さびしい。つらい。悔しい。なつかしい。もう会えないと思った。まだ忘れられないと思った。こうした気持ちがあるから、人は短歌を書きたくなる。何も感じていないところから、無理に短歌を作る必要はない。心が動いたことは、短歌の入口になる。

問題は、その感情をそのまま全部説明してしまうことである。

「悲しい」と書けば、悲しいことは伝わる。「さびしい」と書けば、さびしいことは伝わる。「つらい」と書けば、つらいことは伝わる。感情語は便利である。気持ちに名前をつける力がある。

しかし、それは感情の説明である。

説明された感情が、そのまま読者の中に起きるとは限らない。ここに、短歌の難しさがある。

この連載の最初のほうで、詩とは説明ではなく発生させる言葉である、と書いた。これは、感情表現にもそのまま当てはまる。作者が「悲しい」と説明することと、読者の中に悲しさが生まれることは、似ているようで違う。

たとえば、ある歌の中に「私は悲しくて、つらくて、さびしくて、もうどうしようもない」と並んでいたとする。作者の気持ちはわかる。強い感情があることもわかる。しかし、読者はそこで、作者の説明を受け取るだけになりやすい。

読者は、悲しいのだな、つらいのだな、さびしいのだな、と理解する。けれども、読者自身の中で悲しさが動き出す前に、作者が感情の名前をすべて言ってしまっている。読者が感じ取る前に、結論が置かれているのである。

短歌は短い。三十一音前後しかない。その短さの中で、作者が感情をすべて言い切ってしまうと、読者が入る場所がなくなる。

読者が入る場所とは、意味を勝手に解釈する余地のことではない。何を書いても読者に委ねればよい、という話でもない。余白とは、読者が感じ取れるだけの手がかりがあり、しかし感情の結論までは閉じられていない場所のことである。

たとえば、夜の台所に残ったコップがある。開けずに伏せたスマートフォンがある。一人分だけの椅子がある。冷めた飲みものがある。返信のない画面がある。脱ぎっぱなしの上着がある。

これらは、それだけでは感情語ではない。コップはコップであり、椅子は椅子であり、画面は画面である。しかし、置かれ方によっては、そこにさびしさや気まずさや未練が入り込む。読者は、その物を見ながら、自分の中で感情を受け取り始める。

「さびしい」と書かなくても、さびしさが立ち上がることがある。「つらい」と書かなくても、つらさが伝わることがある。「うれしい」と書かなくても、うれしさが明るく残ることがある。

これは、感情を消しているのではない。感情の入口を変えているのである。

感情語を削ることは、感情を消すことではない。ここは、初心者にとって重要である。感情語を減らすと、自分の気持ちまで薄くなってしまうように感じることがある。せっかく強く感じたのに、それを言わなければ伝わらないのではないか、と不安になる。

しかし、短歌において感情は、感情語だけに宿るわけではない。物に宿る。場面に宿る。動作に宿る。身体感覚に宿る。言いかけたまま止まった言葉に宿る。見てしまったもの、見ないようにしたもの、触れたもの、触れられなかったものに宿る。

以前、「さびしい」と書く前に、さびしいときに見えていたものを書く、という話をした。今回の話は、それとつながっている。ただし、同じことを繰り返しているのではない。あの回では、感情を具体物や場面に移す入口を考えた。今回は、それを読者との関係から考えている。

作者が感情をすべて言ってしまうと、読者は感じる前に説明を受け取る。作者が感情の入口を物や場面に移すと、読者はそこから自分で感じ取ることができる。短歌は、作者の感情をそのまま押しつけるものではない。作者の感情が、言葉の構造を通って、読者の中で別の形に立ち上がるように置くものである。

もちろん、感情語を使ってはいけないわけではない。

「悲しい」という一語が必要な歌もある。「さびしい」という言葉を置くことで、歌の焦点が定まる場合もある。感情語そのものを禁止してしまうと、短歌は不自然に硬くなる。人間の気持ちを扱っているのに、感情の名前をまったく使えないと決める必要はない。

大切なのは、感情語を使うか使わないかではない。どこまで言い、どこから読者に渡すかである。

一語だけ置かれた「悲しい」は、強く響くことがある。けれども、「悲しい」「つらい」「苦しい」「もう耐えられない」と感情を重ねていくと、歌はだんだん説明に近づく。読者は、その感情を感じるより先に、作者の訴えを聞くことになる。

短歌では、言う部分と渡す部分の配分が重要である。

言わなければ伝わらないこともある。言いすぎると閉じてしまうこともある。その中間に、短歌の言葉を置く場所がある。

自分の歌を見直すときは、感情語だけに注目してみるとよい。

この歌は、感情語だけで成立していないか。「悲しい」「さびしい」「つらい」を消しても、場面は残るか。読者が感じ取るための具体物はあるか。作者が先に結論を言いすぎていないか。読者に感じてもらう場所は残っているか。感情を説明する言葉と、感情が立ち上がる場面のどちらが強いか。

こうした問いを持つだけで、推敲の見え方は変わる。

たとえば、短歌になる前の文に「とてもさびしかった」と書いてあるとする。そのとき、すぐに「さびしい」を五七五七七に入れようとしなくてよい。まず、そのさびしさのときに何が見えていたかを考える。部屋は明るかったのか。暗かったのか。机には何があったのか。スマートフォンは鳴ったのか、鳴らなかったのか。外の音は聞こえていたのか。自分は何をしようとして、何をやめたのか。

その中から一つを選ぶ。全部ではない。一つでよい。

感情を直接言う代わりに、その感情のときに見えていたものを置いてみる。すると、歌の中に読者が入る入口ができる。読者は、その物や場面を通って、感情に近づく。

ただし、具体物を書けば必ずよい短歌になるわけではない。ここも単純化してはならない。

コップを書けばさびしくなるわけではない。スマートフォンを書けば現代的になるわけでもない。椅子を書けば孤独が出るわけでもない。具体物は、ただ置けば効くものではない。感情と結びつく焦点が必要である。

なぜそのコップなのか。なぜその画面なのか。なぜその上着なのか。そこに、作者の認識が必要になる。同じ物でも、どの角度から見るかによって、歌の意味は変わる。

短歌における余白は、何も書かないことではない。手がかりを残したうえで、最後の感じ方を読者の中に開くことである。

作者が何も置かなければ、読者は入れない。作者が全部説明すれば、読者は入る必要がなくなる。短歌は、そのどちらでもない。少ない言葉で手がかりを置き、読者の中で感情が発生するようにする。

感情を持つことは、短歌の出発点になる。しかし、感情を全部言うことが、そのまま短歌の強さになるわけではない。感情を言いすぎると、読者が感じる場所がなくなることがある。

だから、短歌を書くときには、自分の感情を大切にしながら、その感情をどこまで言うかを考える必要がある。言い切るのか。一語だけ置くのか。物に移すのか。場面に預けるのか。動作で見せるのか。沈黙として残すのか。

感情を削ることは、感情を弱めることではない。感情を、読者に届く形へ変えることである。

次に問題になるのは、感情だけではない。一首の中に、出来事も、背景も、理由も、結論も、すべて入れようとすると、歌はさらに散らかりやすくなる。

短歌は短い。だからこそ、何を言うかと同じくらい、何を言わないかが重要になる。

感情を言いすぎないことは、その第一歩である。

(了)


深水英一郎
次世代短歌

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