自分の歌を読者として読む方法——作者の思い込みから一度離れる [#024]

前回は、名詞は短歌の中に置く小さな灯火である、と書いた。短歌の中に物や場所や時間が置かれることで、読者はそこに何かを見ることができる。抽象的な感情だけではなく、コップ、駅、雨、制服、台所、夜明けといった名詞があることで、読者の目は作品の中に入っていく。

しかし、ここで一つ問題が起きる。作者自身には、その名詞が照らしているものがよく見えている。なぜなら作者は、その歌を書いたときの背景を知っているからである。誰のことを書いたのか。どこで起きたことなのか。そのとき何があったのか。自分がどんな気持ちだったのか。作者には、それらがはじめから見えている。

だから作者は、自分の歌を読むとき、歌の中に書かれていないものまで読んでしまう。これは自然なことである。自分で書いた歌なのだから、その背後にある経験や記憶を完全に消して読むことはできない。けれども、そのままでは推敲が難しくなる。作者にとっては十分に見えている歌が、読者にとっては手がかりの少ない歌であることがあるからである。

作者には、自分の歌が見えすぎている。

このことを知るだけでも、自作の読み方は少し変わる。自分には意味がわかる。自分には場面が浮かぶ。自分にはその一語がなぜ必要なのかがわかる。だが、それは作品の中に実際に書かれているから見えているのか。それとも、作者である自分が背景を知っているから見えているのか。この二つを分けて考える必要がある。

読者は、作者の記憶を読むことはできない。読者が読めるのは、作品に置かれた言葉である。名詞、動作、助詞、語順、結句。そうしたものだけを手がかりにして、読者は歌の中で起きていることを受け取る。作者がどれほど強い思いを持っていても、それが作品の言葉として置かれていなければ、読者はそこまで届くことができない。

これは、読者にすべてを説明しなければならない、という意味ではない。むしろ逆である。短歌では説明を増やしすぎると、読者が感じる場所がなくなる。感情をすべて言い切り、理由をすべて書き、最後に意味までまとめてしまうと、歌は読者の中で立ち上がりにくくなる。読者に渡すためには、余白が必要である。

ただし、余白と説明不足は違う。余白は、読者が入れるすきまである。説明不足は、読者が入る入口そのものがない状態である。前者では、読者は作品の中に入って想像することができる。後者では、読者はどこから入ればよいのかわからない。短歌を推敲するときに難しいのは、この二つが外見上は似ていることである。

作者は、削ったつもりで必要な手がかりまで消してしまうことがある。反対に、読者に伝えようとして説明を足しすぎ、歌の呼吸を重くしてしまうこともある。だから、自分の歌を読者として読み直す必要がある。

自分の歌を読者として読むとは、作者の意図を捨てることではない。自分が何を書きたかったのかは大切である。歌は、作者の経験や認識や感情から生まれる。そこを失えば、歌の核も失われる。問題は、作者の意図そのものではない。その意図が、作品の中の言葉として読める形になっているかどうかである。

読者として読むとは、自分の正解を一度横に置くことである。自分はこの歌で何を書きたかったのか、という問いをいったん脇に置く。そして、作品の中に実際に何が書かれているのかを見る。作者の頭の中ではなく、紙面や画面の上に置かれた言葉だけを見る。

まず、自分の歌の中にある名詞を抜き出してみるとよい。そこには、読者が見ることのできる物や場所や時間があるだろうか。たとえば「悲しみ」「思い出」「孤独」のような抽象的な名詞だけで歌ができている場合、読者の目は作品の中で止まりにくい。もちろん抽象語が必ず悪いわけではない。ただ、それだけでは読者が場面に入る足場が弱くなることがある。

次に、動作や状態を見る。誰が、何をしているのか。何が、どうなっているのか。立っているのか、歩いているのか、待っているのか、捨てたのか、見ないふりをしたのか。短歌は短い詩であるから、すべての情報を書くことはできない。それでも、読者が最低限たどれる動きがあるかどうかは確認したい。

さらに、関係性を見る。誰と誰の関係なのか。自分と相手なのか。自分と物なのか。過去の自分と現在の自分なのか。ここで助詞は小さいが大きな働きをする。「が」「を」「に」「へ」「から」「まで」といった言葉が変わるだけで、歌の中の関係は変わる。作者には当然の関係でも、読者には助詞の置き方からしか見えないことがある。

結句も確認する。短歌の最後の七音は、読者が歌から出ていく場所である。そこで説明をまとめすぎていないか。逆に、何も残らないまま終わっていないか。結句が強すぎると、それまでに開いていた余白を閉じてしまうことがある。結句が弱すぎると、読者はどこに立てばよいのかわからないまま放り出されることがある。

このように読むと、自作の中に二種類の箇所が見えてくる。一つは、説明しすぎている箇所である。理由を言いすぎている。感情を言いすぎている。読者が感じる前に、作者が「これはこういう意味です」と先に閉じてしまっている。そういう箇所は、削る候補になる。

もう一つは、説明不足になっている箇所である。誰のことかわからない。場面が見えない。名詞が抽象的すぎる。関係性がつかめない。読者が入るための入口がない。そういう箇所には、説明を足すのではなく、手がかりを足すことを考える。理由を書くのではなく、物を置く。感情を説明するのではなく、動作を置く。背景を長く語るのではなく、関係が見える一語を選ぶ。

たとえば、「さびしかった」と書く代わりに、どんなものが見えていたのかを置くことができる。空になった椅子なのか、冷めた味噌汁なのか、既読のつかない画面なのか、駅前で消えていく傘なのか。どれを置くかによって、読者が受け取るさびしさは変わる。説明ではなく手がかりを置くとは、そういうことである。

前回の言い方を使えば、名詞は灯火である。ただし、灯火は置けばよいというものではない。歌の核と関係のない場所に置かれた名詞は、読者の目を余計な方向へ向けてしまう。反対に、必要な場所に名詞がないと、読者は暗い部屋の中に入るように、どこを見ればよいのかわからなくなる。

だから、読者として自分の歌を読むときには、その灯火がどこを照らしているかを見る。読者が見るべきものを照らしているのか。作者だけが知っている背景に頼っていないか。説明を削ったあと、灯火そのものまで消えていないか。名詞は、ただの飾りではない。読者が作品の中で立つ場所を見つけるための手がかりである。

自分の歌を読者として読むためには、時間を置くことも有効である。書いた直後は、作者の記憶がまだ強く残っている。そのため、歌の中に書かれていないことまで自然に補ってしまう。翌日に読むだけでも、少し距離ができる。数日置けば、さらに読者に近い立場で読めることがある。

声に出して読むことも役に立つ。黙読では意味を補って読めてしまう箇所でも、声に出すとリズムの不自然さや言葉の重さが見えることがある。紙に印刷する、別の画面で読む、タイトルや作成時のメモを見ずに読む、といった方法もよい。形式を変えると、自分の思い込みから少し離れられる。

大切なのは、自分の歌を責めるために読むのではない、ということである。読者として読むのは、粗探しをするためではない。作品が読者に何を渡せているかを確認するためである。自分の意図がどれほど大切でも、それが作品の言葉として読めなければ、読者には届かない。反対に、作者が意図していなかったものが、作品の言葉から自然に立ち上がることもある。

自作を読むときは、次のように問うてみるとよい。書かれている名詞は何か。読者が見える場面はあるか。感情語を消しても残る核はあるか。説明しすぎている箇所はあるか。説明不足になっている箇所はあるか。余白として働いている箇所はあるか。助詞は関係性を作っているか。結句は出口として働いているか。読後に何が残るか。そして、作者の意図ではなく、作品の言葉から何が読めるか。

この問いは、短歌をわかりやすく薄めるためのものではない。読者に迎合するためのものでもない。むしろ、短歌を作品として強くするための問いである。作者の中にある経験や感情を、そのまま置くだけでは、読者は受け取れないことがある。読者が受け取れる形にするためには、言葉を選び、置き、削り、必要な手がかりを残す必要がある。

自分の歌を読者として読むとは、作者の意図を捨てることではない。作者には見えすぎている背景や感情を一度横に置き、作品に置かれた言葉だけから何が読めるかを確認することである。そこでは、説明しすぎているところも、説明不足になっているところも見えてくる。余白として残すべき場所と、手がかりを足すべき場所も少しずつ分かれてくる。

短歌は、作者の中で完結するものではない。作者の経験から生まれた言葉が、読者の中でもう一度立ち上がることで、作品として働きはじめる。そのためには、作者自身が一度、読者の場所に立ってみる必要がある。

自分の歌を読者として読めるようになると、短歌が単なる感想や記録ではなく、経験を読者に渡すために組み立てられた小さな構造であることが見えてくる。次回は、この第1ブロックの総括として、短歌とは経験を読者に渡すための小さな構造である、というところへ進む。

(了)


深水英一郎
次世代短歌

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