前回は、五七五七七は言葉を閉じ込める檻ではなく、言葉を選ばせる装置である、と書いた。短歌の定型は、言葉を不自由にするためだけにあるのではない。限られた音数の中で、何を残し、何を削り、どこに置くかを作者に迫る。その結果として、短歌はただの短い文章ではなく、ひとつの作品として立ち上がる。
では、そのようにして置かれた短歌を読むとは、どういうことなのか。
短歌を読むとき、私たちはつい、作者の正解を探したくなる。作者は何を言いたかったのだろうか。この歌の本当の意味は何だろうか。自分の読みは合っているのだろうか。間違っているのではないだろうか。そう考えると、短歌は急に難しいものに見えてくる。
もちろん、作者が何を思ってその歌を書いたのかは、まったく無意味ではない。作者の経験、時代、場所、関係、生活の背景を知ることで、作品の見え方が変わることはある。作者自身の言葉によって、歌の輪郭がはっきりすることもある。短歌は空中から突然生まれるものではない。どの歌にも、それを書いた人がいる。
しかし、読者が直接読むことができるのは、作者の心そのものではない。読者の前に置かれているのは、作者の胸の内ではなく、作品に置かれた言葉である。作者がどれほど強い感情を持っていたとしても、その感情が作品の中に言葉として置かれていなければ、読者はそれを読むことができない。反対に、作者が意識していなかったものが、作品の言葉の中から読者に伝わることもある。
だから、短歌を読むとは、作者の正解を当てることではない。作者の心の中に隠された答えを探しに行くことでもない。読むとは、作品の中で何が起きているかを見ることである。
その歌には、どんな物が置かれているのか。どんな場面が見えるのか。どこに人がいるのか。どの言葉で時間が動くのか。どの言葉で視点が変わるのか。どこで感情が立ち上がるのか。何が説明され、何が説明されていないのか。短歌を読む入口は、まずそこにある。
たとえば、悲しいという言葉が書かれていなくても、傘の置かれ方、夕方の光、返信の来ない携帯電話、冷めた飲み物のようなものによって、悲しみが立ち上がることがある。そのとき読者は、作者が悲しかったかどうかを当てているのではない。作品の中に置かれた言葉の働きによって、自分の中に悲しみに近いものが起きているのである。
ここで大切なのは、読みは自由でよい、という言い方を雑に使わないことである。作者の正解を当てなくてよいからといって、何でも好きに読めばよいわけではない。作品に書かれていないことをどこまでも付け足してよい、ということでもない。
読みには根拠がいる。その根拠は、作品の中に実際に置かれている言葉である。
読者は想像してよい。むしろ短歌は、すべてを説明しないからこそ、読者の想像を必要とする。三十一音前後の短い形式の中で、人物の事情も、場所の説明も、感情の理由も、すべてを言い尽くすことはできない。短歌には、必ず余白が生まれる。その余白に読者が入ることで、作品は読む人の中で再び動き出す。
ただし、その想像は、作品の言葉から完全に離れてしまってはいけない。書かれている物、動作、言い回し、順序、響き、切れ方、見えている場面。そうした手がかりを踏まえて読むからこそ、読みは作品への応答になる。作品の中の言葉に支えられている読みと、作品から離れて勝手に作った物語とは、同じではない。
短歌の読みで不安になるのは、多くの場合、「正解を当てなければならない」と思っているからである。けれども、短歌の読解は、試験の解答欄を埋める作業ではない。作者の秘密を暴くことでもない。作品の中に置かれた言葉をたどり、その言葉が自分の中で何を起こしたのかを確かめる行為である。
この連載のはじめのほうで、詩とは説明ではなく、発生させる言葉である、と考えた。短歌もまた、読者の中に何かを発生させる言葉である。読むとは、その発生を確かめることでもある。
どの言葉で場面が見えたのか。どの言葉で感情が生まれたのか。どこで記憶が動いたのか。どこで身体感覚が反応したのか。たとえば寒いと書かれていないのに寒さを感じたなら、その寒さはどの言葉から来たのか。孤独と書かれていないのに孤独を感じたなら、その孤独はどの配置から生まれたのか。そこを見ていくと、短歌は少しずつ読めるようになる。
もちろん、一読してすぐにわからない短歌もある。短歌は短い形式である。すべてが説明されているわけではない。前後の事情が切り落とされていることも多い。比喩や省略によって、すぐには像が結ばないこともある。だから、わからないからといって、すぐに悪い歌だと決める必要はない。
ただし、わからなさにも種類がある。
読者が何度か読み返すうちに、少しずつ場面が見えたり、言葉のつながりが感じられたり、感情の気配が立ち上がってきたりするわからなさがある。これは、作品の中に余白がある状態である。読者はすぐにすべてを理解できないが、入っていくための手がかりはある。
一方で、どこを読めばよいのかまったくわからず、言葉同士の関係も見えず、何を手がかりにすればよいのかつかめない歌もある。これは、余白というより、不親切さに近いことがある。もちろん、あえて読者を迷わせる作品もあるため、簡単に決めつけるべきではない。しかし、初心者が読むときには、「わからない」という感覚をただ怖がるのではなく、「このわからなさには手がかりがあるか」と見るとよい。
短歌を読む力は、短歌を書く力にもつながっている。
他人の歌を読むとき、どの言葉が効いているのか、どこで場面が見えたのか、どこに余白があるのかを考える。その経験は、自分が歌を書くときにも返ってくる。自分の歌の中で、どの言葉が働いているのか。どこが説明しすぎているのか。どこが足りないのか。どこに読者が入る余地があるのか。読む力が少しずつ育つと、書いた歌を見直す目も育っていく。
ただし、ここでいう読む力は、歌に点数をつける力ではない。作品を一瞬で判定する力でもない。歌の中で何が起きているのかを、言葉に即して見る力である。どの言葉がどのように働き、どのような場面や感情や余白を生んでいるのかを見ようとする態度である。
短歌を読むとは、作者の正解を当てることではない。作者が何を思って書いたかは大事である。しかし、読者が直接読めるのは作者の心ではなく、作品に置かれた言葉である。
正解を当てなくてよいからといって、何でも自由に読めばよいわけでもない。読みには、作品の中の言葉という根拠が必要である。その根拠をたどりながら、作品の中で何が起きているのかを見る。読者の中に何が立ち上がったのかを確かめる。そこに、短歌を読む入口がある。
読むことが作者の正解当てではないなら、書くこともまた、思ったことをただ並べることではない。読者は作者の心を直接読むのではない。作品に置かれた言葉を読む。だからこそ作者は、自分の思いをそのまま置くだけでは足りない。読者の前で働く言葉として、選び、削り、置き直さなければならない。
次回は、短歌を書くとは、思ったことを並べることではない、ということを考える。
(了)
深水英一郎
次世代短歌

小学生のとき真冬の釣り堀に2回落ちたことがあります。釣れた魚の数より落ちた回数の方が多いです。
テクノロジーの発展によってわたしたち個人の創作活動の幅と深さがどういった過程をたどって拡がり、それが世の中にどんな変化をもたらすのか、ということについて興味があって文章を書いています。その延長で個人創作者をサポートする活動をおこなっています。