短歌を書くとは、思ったことを並べることではない──選び、置き、削るという創作 [#010]

前回は、短歌を読むとは作者の正解を当てることではない、と書いた。読者は、作者の心の中を直接読むのではない。作品に置かれた言葉を手がかりに、その作品の中で何が起きているのかを読む。

では、書く側は何をしているのか。

短歌を書くとは、思ったことをそのまま並べることではない。感じたこと、思い出したこと、考えたことを、順番に五七五七七へ入れていくことではない。短歌を書くとは、経験や感情の中から何を選び、どこに置き、何を削るかを決めることである。

ここを取り違えると、短歌はすぐに感想文や日記に近づいていく。

もちろん、思ったことが出発点になることは多い。うれしかった。さびしかった。腹が立った。なぜか忘れられない場面があった。誰かの言葉が胸に残った。そういうものがなければ、そもそも一首を書き出すことは難しい。

しかし、思ったことがあることと、それがそのまま短歌になることは違う。

人は、出来事と感情と理由と背景を、きれいな順番で感じているわけではない。ある場面を思い出すとき、そこには多くのものが同時に含まれている。何が起きたか。誰がいたか。自分はどう思ったか。なぜそう思ったか。その前に何があったか。その後に何を考えたか。ひとつの経験の中には、いくつもの情報が重なっている。

その重なりを、思いついた順番のまま書いていくと、文章は説明に近づく。

たとえば、ある雨の日に、駅前で誰かを待っていたとする。寒かった。傘の端から水が落ちていた。相手はなかなか来なかった。自分は少し怒っていたが、同時に心配もしていた。昔にも同じようなことがあった。そういうことを全部入れようとすると、一首はすぐにいっぱいになる。

短歌は短い。三十一音前後の器に、出来事、理由、背景、感情、結論をすべて入れることはできない。入れようとすれば、どれも少しずつ弱くなる。何が見せたいのか、何を感じてほしいのかがぼやける。

だから、短歌では選ぶことが必要になる。

書くとは、まず選ぶことである。自分の中にある素材のうち、一首に残すものを決めることである。出来事そのものを残すのか。場面の一部を残すのか。相手の言葉を残すのか。自分の感情を残すのか。物の様子を残すのか。その選択によって、歌の焦点は変わる。

同じ出来事からでも、まったく違う短歌が生まれるのはそのためである。

駅前で待たされたという出来事を書くとしても、怒りを中心にすれば別の歌になる。心配を中心にすれば別の歌になる。雨粒や傘や靴下の冷たさを中心にすれば、また別の歌になる。出来事は同じでも、どこを見るかによって短歌は変わる。

ここで重要なのは、選ぶとは、何かを残すことであると同時に、何かを書かないと決めることでもある、という点である。

短歌を書くとき、初心者はしばしば全部を入れようとする。なぜそう思ったのかを説明したくなる。どういう事情だったのかを書きたくなる。自分の気持ちを誤解されないように、言葉を足したくなる。

その気持ちは自然である。だが、短歌では、全部を説明することが必ずしも伝わることにつながらない。

むしろ、説明を入れすぎることで、読者が感じる場所がなくなることがある。背景をすべて書くことで、場面の強さが弱まることがある。感情を直接言いすぎることで、かえって感情が平たく見えてしまうことがある。

だから、短歌を書くとは、感じたことを読者に渡す形へ選び直すことだと言える。

次に、書くとは置くことである。

同じ言葉でも、どこに置くかによって読まれ方は変わる。最初に置かれた言葉は、読者の入口になる。最後に置かれた言葉は、読後に残りやすい。上句に置くか、下句に置くかによって、言葉の働きも変わる。

たとえば、最初に感情を置けば、読者はその感情を前提にして後の言葉を読む。最初に物や場面を置けば、読者はまずその景色の中に入る。最後に感情を置けば、その感情が結論のように響く。最後に物を置けば、感情を言い切らずに余韻を残すこともできる。

これは、どれが正しいという話ではない。重要なのは、置き方によって読者の受け取り方が変わるということである。

短歌は、言葉の内容だけでできているのではない。言葉の順番によってできている。どの言葉を先に見せ、どの言葉を後に残すか。その配置もまた、創作の一部である。

思った順番と、作品として読まれる順番は違う。

自分の中では、まず感情があったのかもしれない。けれど作品では、いきなり感情を書かず、場面から入るほうがよい場合がある。自分の中では、背景が大きな意味を持っていたのかもしれない。けれど作品では、その背景を削り、ひとつの物だけを残すほうが強くなる場合がある。

短歌を書くときに考えるべきなのは、自分がどの順番で感じたかだけではない。読者がどの順番で言葉を受け取るかである。

読者は、作者の心の中を読むことはできない。読者が読むのは、作品に置かれた言葉である。だから、書く側は「自分にはわかっているから、読者にも伝わるはずだ」と考えすぎてはいけない。

しかし、反対に、すべてを説明すればよいわけでもない。

短歌には、手がかりと余白の両方が必要である。手がかりがなければ、読者は作品の中に入れない。何が起きているのか、どこを見ればよいのかがわからなくなる。けれど、余白がなければ、読者の中で何も広がらない。作者がすべてを言い終えてしまうと、読者はただ説明を受け取るだけになる。

書くとは、その手がかりと余白の量を調整することでもある。

そのために必要なのが、削ることである。

削ることは、作品を弱くすることではない。むしろ、見せたいものを見えやすくするために削るのである。余分な説明を削ることで、残された言葉が強くなることがある。背景を削ることで、場面が前に出ることがある。感情語を削ることで、かえって感情が立ち上がることがある。

たとえば、「私はとてもさびしかった」と書けば、気持ちは明示される。だが、その一文だけでは、読者はそのさびしさを自分の中で感じる前に、作者から感情の名前を渡されることになる。

一方で、さびしいときに見えていた物、聞こえていた音、触れていた冷たさが残っていれば、読者はそこから感情に近づくことができる。感情の名前を削っても、感情そのものが消えるとは限らない。むしろ、場面の中に感情が宿ることがある。

ただし、削れば必ずよくなるわけではない。

削りすぎれば、作品はわからなくなる。手がかりまで削ってしまえば、読者はどこにも立てない。短歌における削るとは、何でも短くすることではない。焦点に関係の薄いものを外し、残すべきものを残すことである。

つまり、削ることもまた、選ぶことなのである。

短歌を書くとき、自分に問いかけるべきことはいくつかある。

この一首でいちばん残したいものは何か。最初に読者へ見せるべきものは何か。最後に読者の中に残したいものは何か。説明しすぎている部分はどこか。感情を言いすぎている部分はどこか。この歌から外してもよい情報は何か。そして、削ったあとにも、読者が入るための手がかりは残っているか。

これらは、短歌を難しく考えるための問いではない。むしろ、思ったことをそのまま並べてしまわないための、実作上の支えである。

短歌は、五七五七七にした感想文ではない。この連載の最初にそう書いた。今回の話は、その主張を、書く側から言い直している。

短歌を書くとは、思ったことを五七五七七へ流し込むことではない。思ったことを出発点にしながら、それを一首として読まれる形へ変えていくことである。

そのために、選ぶ。置く。削る。

何を残すかを選ぶ。どの順番で読ませるかを考えて置く。焦点をぼやかすものを削る。そうして初めて、経験や感情は、読者に渡せる言葉の形になっていく。

読者は、作者の心ではなく、書かれた言葉から読む。だから書く側は、心の中にあるものをただ出せばよいのではない。読者の中で何かが立ち上がるように、言葉を選び、置き、削る必要がある。

では、何を削り、何を残すべきなのか。とくに難しいのは、感情である。感情は短歌の大切な出発点になる。けれど、感情を言いすぎると、読者の感じる場所がなくなることがある。

次回は、その問題を考える。

(了)


深水英一郎
次世代短歌

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