よい短歌は、出来事ではなく見方で決まる──同じ素材から、違う短歌が生まれる理由 [#005]

前回は、短歌の素材は特別な出来事でなくてよい、と書いた。

大きな事件、珍しい体験、強い感情だけが短歌の出発点になるわけではない。夜の台所に残ったコップ、片方だけ落ちている手袋、開けていない通知、窓に残った雨の跡。そうした日常の中の小さなものも、短歌の入口になりうる。

しかし、素材を拾っただけでは、まだ短歌は始まらない。

素材は、短歌の入口である。入口に立っただけでは、まだ作品にはならない。そこから先に必要になるのは、その素材をどう見るかである。短歌は、出来事の珍しさや大きさだけで決まるものではない。その出来事をどう見たかによって、一首の方向が決まる。

駅に手袋が落ちていた、と書けば、それは出来事の記録である。窓に雨の跡が残っていた、と書けば、それは観察メモである。スマートフォンに通知が来ていた、と書けば、それは状況説明である。

もちろん、記録やメモが悪いわけではない。むしろ、それらは短歌の大切な出発点である。ただし、そのままではまだ報告に近い。短歌に近づくためには、そこに自分の見方が加わる必要がある。

ここで言う見方とは、むずかしい言葉で言えば認識である。ただ、最初から認識という言葉を重く考える必要はない。まずは、ものの見方と考えればよい。同じものを見ても、人によって気になるところは違う。その違いが、短歌では作品の中心になりうる。

たとえば、夜の台所にコップが残っていたとする。

それを、ただの片づけ忘れと見ることもできる。誰かがそこにいた跡と見ることもできる。一日の終わりに残されたものと見ることもできる。自分だけがまだ起きている時間のしるしと見ることもできる。

素材は同じである。けれど、見方が変わると、そこから立ち上がる歌の方向はまったく変わる。

片づけ忘れとして見るなら、生活の雑然とした感じが前に出る。誰かがそこにいた跡として見るなら、不在や気配が前に出る。一日の終わりに残されたものとして見るなら、時間の残り香のようなものが前に出る。自分だけが起きている時間のしるしとして見るなら、孤独や静けさが前に出る。

短歌において大事なのは、コップという素材そのものが特別かどうかではない。そのコップを、作者がどう見たかである。

片方だけ落ちている手袋も同じである。

それを落とし物と見れば、ただの路上の出来事になる。持ち主の不在と見れば、そこにいない誰かの気配が生まれる。対になるものを失った状態と見れば、手袋は単なる物ではなくなる。自分にも置き忘れてきたものがあるように感じれば、その手袋は記憶や後悔につながっていく。

このとき、短歌は出来事を大きくしているのではない。小さな出来事の中に、どんな角度があるのかを見つけているのである。

開けていない通知も、ただの通知として書けば、状況説明で終わりやすい。けれど、それをまだ向き合いたくないものと見るなら、そこにはためらいが生まれる。関係の重さと見るなら、通知の光は単なる光ではなくなる。読む前の時間にある緊張と見るなら、通知を開く前の数秒そのものが短歌の中心になる。

窓に残った雨の跡も、汚れとして見れば掃除の対象である。昨日の天気の名残として見れば、時間の跡になる。消えたはずのものがまだ残っている状態として見れば、そこには記憶に近いものが生まれる。

このように、同じ素材でも、見方が変われば歌は変わる。読者の中に残るものも変わる。

短歌に必要な発見は、大げさな思想でなくてよい。

ここは、とても大切である。短歌を書くとなると、何か深いことを言わなければならないと考えてしまうことがある。人生についての結論、社会についての意見、人間についての大きな洞察。そうしたものがなければ短歌にならないと思ってしまう。

しかし、短歌に必要な発見は、必ずしも大きな思想ではない。

なぜかそこだけ覚えている。なぜかその物だけが目に残っている。ほかの人なら見過ごすかもしれないのに、自分はそこで少し立ち止まった。その程度の小さな引っかかりでよい。

むしろ、短歌の入口はそのような小さな引っかかりにあることが多い。

なぜ、そのコップが気になったのか。なぜ、その手袋を覚えているのか。なぜ、その通知をすぐに開けなかったのか。なぜ、その雨の跡をただの汚れとして見られなかったのか。

その問いが、素材を短歌へ近づける。

出来事を報告するだけなら、「何があったか」を書けばよい。けれど、短歌を書くなら、「自分はその出来事のどこに引っかかったのか」を見る必要がある。ここに、報告文と短歌の違いがある。

報告文は、出来事を伝える。

短歌は、出来事を通して何が見えたのかを立ち上げる。

もちろん、短歌も言葉で出来事を書く。物を書く。場面を書く。けれど、それはただ情報を伝えるためだけではない。その物や場面を通して、読者の中に感覚や感情や記憶が起きるように置くのである。

そのためには、まず作者自身が、自分の見方に気づかなければならない。

素材メモを短歌に近づけるときには、すぐ五七五七七に入れようとしなくてよい。むしろ最初は、素材の横に問いを置いてみるほうがよい。

その場面のどこが気になったのか。なぜ、そのことを覚えているのか。ほかの人なら見過ごすかもしれない点はどこか。その物は、自分には何に見えたのか。そこに時間、関係、記憶、感情のどれがにじんでいるのか。説明せずに残すなら、どの部分を残すのか。

こうした問いは、短歌をむずかしくするためのものではない。逆である。素材をそのまま五七五七七に押し込もうとすると、かえって書きにくくなる。何を入れればよいのか、何を削ればよいのかがわからなくなるからである。

見方が決まると、一首の焦点が見えてくる。

素材は入口であり、見方は焦点である。焦点がないまま書くと、短歌は散らかりやすい。見たもの、感じたこと、考えたことを全部入れようとして、結局どこを読めばよいのかわからない歌になってしまう。

何を詠むかだけではなく、どう見るかを決める。

これは、短歌を書く上でとても重要な考え方である。

「夜の台所にコップがあった」という素材を選ぶだけでは、まだ中心は定まらない。そのコップを、誰かの気配として見るのか、自分だけが起きている時間として見るのか、一日の残りとして見るのか。その見方によって、残す言葉は変わる。削る言葉も変わる。結句でどこに着地するかも変わる。

短歌は、素材を並べるものではない。見方を通して、素材を選び直すものである。

だから、よい短歌は出来事で決まるのではない。出来事への見方で決まる。

これは、珍しい出来事を詠んではいけないという意味ではない。旅先の風景、人生の大きな転機、強い喜びや悲しみ。そうしたものも、もちろん短歌の素材になる。けれど、出来事が大きければ自動的によい短歌になるわけではない。

大きな出来事でも、見方がなければ報告になる。小さな出来事でも、見方があれば短歌に近づく。

たとえば、「旅行に行って海を見た」と書くだけなら、出来事の記録である。けれど、その海を、遠くへ行きたい気持ちとして見たのか、戻れない時間として見たのか、誰かと並んで黙っていた沈黙として見たのかで、歌の方向は変わる。

逆に、「机の上に輪ゴムがあった」という小さな素材でも、それを何かを束ねようとしてほどけたものとして見るなら、そこには関係や時間の感触が生まれるかもしれない。

短歌にとって大切なのは、素材の派手さではない。そこにどんな見方が入っているかである。

見方は、感情の出し方にも関わってくる。

同じコップでも、片づけ忘れとして見るのか、誰かがいた跡として見るのかで、そこに立ち上がる感情は変わる。同じ通知でも、連絡として見るのか、まだ向き合いたくないものとして見るのかで、歌の温度は変わる。

だから、感情を直接言う前に、その感情のときに何が見えていたのかを見る必要がある。

さびしい、と書く前に、さびしいときに何を見ていたのか。不安だ、と書く前に、不安なときにどんな物が目に入っていたのか。うれしい、と書く前に、うれしさの中で何がいつもと違って見えたのか。

感情は、見方を通して形を持つ。

短歌は、日常の素材にものの見方を与えることで立ち上がる。出来事の大きさではなく、そこにどんな発見や違和感があるかが重要である。

素材を拾うことは、短歌の入口である。けれど、その素材のどこに引っかかったのかを見ることで、初めて一首の方向が見えてくる。

次に考えたいのは、その見方が感情表現にどう関わるかである。短歌では、「さびしい」と書くこと自体が悪いわけではない。けれど、さびしさをただ名指しするだけでは、読者の中にさびしさが起きないことがある。

では、感情を直接言う前に、何を書けばよいのか。

その答えは、感情そのものではなく、その感情のときに見えていたものを見るところにある。

(了)


深水英一郎
次世代短歌

上部へスクロール