前回は、推敲とは短歌をきれいにすることではなく、焦点を合わせることだと書いた。
短歌を直すとは、ただ美しい言葉に置き換えることではない。一首が何を立ち上げようとしているのかを見直し、その中心に合わない言葉を削り、必要な言葉を選び直すことである。では、その「選び直す」という作業は、どこで起きるのか。
その大きな場のひとつが、五七五七七という形である。
五七五七七は、短歌にとって重要である。短歌には、五音、七音、五音、七音、七音という基本の形がある。この形があるから、短歌は短歌として読まれやすくなる。三十一音前後という短い器があるからこそ、言葉は引き締まり、響きや切れ目や余韻が生まれる。
だから、五七五七七を軽く見てよいという話ではない。短歌は、自由な短文ではない。形式をまったく考えずに、ただ短く書けば短歌になるわけではない。五七五七七は、短歌を支えてきた基本の形式であり、その形に向き合うことは、短歌を書くうえで避けて通れない。
しかし、ここで同時に確認しておきたいことがある。五七五七七に合わせただけで、短歌になるわけでもない。
思ったことを五七五七七に分ける。音数が足りないところに言葉を足す。余ったところを無理に削る。そうして形だけを整えても、そこに一首の焦点がなければ、短歌は弱くなる。音数は合っているのに、何を読めばよいのかわからない。形は短歌に見えるのに、読んだあとに何も残らない。そういうことが起きる。
たとえば、言いたいことが先にあり、それを無理に五七五七七へ押し込もうとすると、説明が詰まりやすい。「私はこう思った」「なぜならこうだった」「だから悲しかった」という内容を、短い形の中に全部入れようとする。すると、短歌は詩というより、圧縮された説明文に近づいていく。
逆に、音数を合わせるためだけに言葉を足すこともある。「とても」「すごく」「なんとなく」「今日もまた」のような言葉が、必要だからではなく、数を埋めるために置かれる。もちろん、これらの言葉が必ず悪いわけではない。しかし、音数を合わせるためだけに置かれた言葉は、一首の焦点をぼやかすことが多い。
また、音数を合わせるためだけに、大事な言葉を削ってしまうこともある。本当はその歌の中心にある物や場面を残すべきなのに、数に入らないからという理由だけで削ってしまう。すると、形は整っても、歌の核が消える。
つまり、五七五七七は、単なる音数合わせの作業ではない。五七五七七に向き合うとは、言葉を数に合わせることではなく、言葉を選び直すことである。
ここで、この回の中心になる考えを置いておきたい。
五七五七七は、言葉を閉じ込める檻ではない。言葉を選ばせる装置である。
檻という言葉で考えると、定型は不自由なものに見える。自由に言いたいことがあるのに、五七五七七という決まりが邪魔をする。入れたい言葉が入らない。言いたい順番で言えない。もっと説明したいのに、音数が足りない。その感覚は、初心者にとって自然なものである。
けれども、短歌では、その不自由さがそのまま創作の働きになる。
決まった形があるから、すべてを入れることはできない。すべてを入れられないから、何を残すかを考える。何を残すかを考えるから、自分が本当に書きたかったものが見えてくる。
これは、前回扱った推敲と深く関わっている。
推敲とは、焦点を合わせることだった。五七五七七に入れようとすると、言葉は必ず余る。あるいは足りなくなる。余ったときには、何を削るかを考える。足りないときには、何を補うかを考える。そのとき、ただ数を合わせるのではなく、一首の中心に照らして考える必要がある。
この言葉は、本当に必要なのか。
この説明は、読者に渡すべきものなのか。
この感情語を置くより、具体的な物を残した方がよいのではないか。
この順番で読ませると、どこに焦点が当たるのか。
五七五七七は、こうした問いを作者に突きつける。
自由に長く書けるなら、説明を足して済ませることができる。背景も理由も感情も、全部書けばよい。けれども、短歌ではそれができない。三十一音前後という短さがある。だから、書き手は選ばなければならない。
この「選ばなければならない」という圧力が、短歌にとって大切である。
たとえば、「夜の台所に、誰も使っていないコップが残っていて、私はなんとなくさびしかった」という散文のメモがあるとする。このままでは、状況も感情も説明されている。ここから短歌にしようとすると、全部は入らない。では、何を残すのか。
夜を残すのか。
台所を残すのか。
誰も使っていないコップを残すのか。
さびしいという感情語を残すのか。
それとも、さびしいという言葉は消して、コップだけを置くのか。
五七五七七に入れる前に、この選択が始まる。定型は、単に最後に音数を整えるためのものではない。素材を短歌に変えていく途中で、何を中心にするのかを見つけるために働く。
もちろん、最初からきれいに五七五七七へ入るわけではない。むしろ、入らないことの方が多い。言葉が余る。説明が邪魔になる。言いたいことが崩れる。そういう抵抗が出てくる。
しかし、その抵抗は失敗ではない。そこに、推敲の入口がある。
言葉が入りきらないとき、作者は削る。削ると、一首に本当に必要なものが見えてくることがある。逆に、言葉が足りないとき、作者は足す。けれども、ただ埋めるために足すのではない。足りないところには、何を置けば一首の焦点がはっきりするのかを考える。
定型は、作者にこの作業を強いる。だからこそ、定型はただの制約ではなく、装置なのである。
五七五七七は、説明を削らせる。短歌は短いので、出来事の背景をすべて説明することはできない。感情の理由を全部述べることもできない。誰が、いつ、どこで、なぜ、どう思ったのかを全部入れようとすると、歌はすぐに窮屈になる。
けれども、説明できないことは、必ずしも弱点ではない。
説明が削られることで、読者が想像する余地が生まれることがある。言い切られていないから、読者はそこに入っていける。作者が全部説明してしまわないから、読者の中で場面や感情が動きはじめる。
もちろん、何もかも削ればよいわけではない。削りすぎれば、読者は何を読めばよいのかわからなくなる。短歌に必要なのは、ただの不足ではない。読者が受け取れるだけの具体物や場面を残しながら、説明しすぎないことである。
五七五七七は、そのための圧力になる。短いから、全部は言えない。全部は言えないから、何を言わないかを決める。何を言わないかを決めることで、歌の余白が生まれる。
さらに、五七五七七は、言葉の順番を考えさせる。
短歌は、ただ言葉を短く並べるものではない。初句に何を置くかで、読者の入り方は変わる。最初に物を置くのか、時間を置くのか、動作を置くのか。それだけで、一首の見え方は変わる。
上句で場面を見せ、下句で視線を変えることもある。逆に、はじめに感情の気配を置き、あとから具体物を出すこともある。最後の七音に何を置くかで、歌が閉じることもあれば、開いたまま読者に残ることもある。
ここで詳しく結句の話に入る必要はない。結句については、いずれ別に扱う。ただ、今は次のことだけ確認しておけばよい。五七五七七という形は、音の数だけでなく、読まれる順番にも関わっている。
どの言葉を先に見せるか。
どの言葉を後に残すか。
どこで場面を開き、どこで読者に渡すか。
定型は、その順番を考えさせる枠でもある。
だから、五七五七七を前にして「自由に書けない」と感じることは、悪いことではない。むしろ、その不自由さの中で、言葉は選ばれはじめる。
自由に何でも書けるとき、人は説明を増やしやすい。思ったことをそのまま並べ、理由を足し、背景を足し、感情を足していく。それは自然なことだが、そのままでは短歌になりにくい。
五七五七七という制約があると、すべては入らない。入らないから、選ぶ。選ぶから、焦点が見える。焦点が見えるから、不要な説明を削れる。不要な説明を削るから、読者の中で立ち上がる余地が生まれる。
定型は、創作を狭めるだけのものではない。ときには、自由に書いていたときには見えなかった言葉を見せてくれる。
本当は、自分は出来事の全部を書きたかったのではない。
本当は、あの一つの物を書きたかったのだ。
本当は、「さびしい」と言いたかったのではなく、さびしいときに見えていたコップを書きたかったのだ。
五七五七七に入れようとして、はじめてそれに気づくことがある。
短歌の定型は、外から押しつけられるだけの決まりではない。作者の中にある素材や感情や認識を、短い詩の形へ変えていくための仕組みである。もちろん、それは簡単な仕組みではない。窮屈に感じることもある。うまく入らないこともある。音数に気を取られすぎて、一首が崩れることもある。
それでも、五七五七七に向き合う意味はある。
なぜなら、その形が、作者に問いを返してくるからである。
何を残すのか。
何を削るのか。
どの言葉を先に置くのか。
どの言葉を最後に残すのか。
その一首は、何を立ち上げようとしているのか。
五七五七七は、言葉を閉じ込める檻ではない。限られた形があるからこそ、何を残し、何を削り、どの順番で置くかを考えることになる。定型は、短歌を不自由にするだけの決まりではなく、言葉を選ばせる装置である。
そして、そうして形になった短歌は、作者の中だけにとどまらない。五七五七七という形に置かれた言葉は、作品として読者に渡される。読者は、その言葉の順番、その省略、その余白、その焦点を読む。
次に考えたいのは、そこから先のことである。短歌を読むとは、作者の正解を当てることなのか。それとも、作品の中で起きていることを読むことなのか。
(了)
深水英一郎
次世代短歌

小学生のとき真冬の釣り堀に2回落ちたことがあります。釣れた魚の数より落ちた回数の方が多いです。
テクノロジーの発展によってわたしたち個人の創作活動の幅と深さがどういった過程をたどって拡がり、それが世の中にどんな変化をもたらすのか、ということについて興味があって文章を書いています。その延長で個人創作者をサポートする活動をおこなっています。