定型とは自由を奪うものではなく言葉を選ばせる装置——五七五七七が歌の核を残す [#020]

前回は、感情語を消しても残るものが、その歌の核である、と書いた。「さびしい」「悲しい」「うれしい」といった言葉を一度外してみると、その奥に、物、場面、違和感、関係性、身体感覚のようなものが残ることがある。感情そのものを否定するのではない。感情を言葉で説明する前に、その感情がどこから来ているのかを見るのである。

では、その歌の核を短歌として残すには、どうすればよいのか。

ここで考えたいのが、定型である。短歌には、五七五七七という形がある。三十一音前後の短い器の中に、経験を入れる。そのことを窮屈だと感じる人は多い。言いたいことはもっとある。説明したい事情もある。なぜそう感じたのか、どんな背景があったのか、どれほど強く思ったのかを書こうとすれば、五七五七七はすぐに足りなくなる。

その実感は間違っていない。五七五七七は、たしかに制約である。自由な文章のようには書けない。日記のように、出来事の順番をすべて書くこともできない。感想文のように、理由や結論を丁寧に説明することもできない。入れられる言葉の量には、はっきりと限りがある。

しかし、制約であることは、そのまま欠点ではない。短歌において定型は、自由を奪うだけの規則ではない。むしろ、言葉を選ばせる装置である。

何でも書ける文章では、何を残すかが曖昧になりやすい。書こうと思えば、事情も、説明も、感情も、補足も、順番に足していくことができる。けれど、短歌ではそれができない。入らない。だから、選ばざるをえない。

入らないから、何を残すかを考える。入らないから、説明を削る。入らないから、感情語に頼りすぎていないかを見る。入らないから、助詞ひとつ、語順ひとつを見直す。入らないから、最後の七音に何を置くかを考える。定型は、作者の自由をただ狭めるのではなく、言葉を選び直す圧力として働くのである。

短歌を書こうとして、まず素材のメモがあるとする。

夕方、駅前のベンチに座っていたら、隣にいた人が何度もスマートフォンを見ていて、そのたびに少しだけため息をついていた。それを見て、なぜか自分まで待たされているような気持ちになって、さびしかった。

これは、まだ短歌ではない。出来事と感想が説明されている。ここから短歌にしていくとき、五七五七七はすぐに狭く感じられる。駅前、ベンチ、隣の人、スマートフォン、ため息、待たされている感じ、さびしさ。全部をそのまま入れることはできない。

そのとき、定型は作者に問いを返してくる。この歌で本当に残したいものは何か。駅前なのか。ベンチなのか。隣の人なのか。スマートフォンを見る手つきなのか。ため息なのか。自分まで待たされているように感じたことなのか。さびしいという感情なのか。

五七五七七に入れようとすると、言葉が余る。その余り方によって、歌の核が見えてくることがある。自分が書きたいと思っていたのは「さびしい」ではなく、隣の人のため息が自分の時間まで曇らせた感じだったのだ、と気づくかもしれない。あるいは、スマートフォンの画面を何度も見る指の動きこそが残したいものだったのだ、と気づくかもしれない。

定型は、すでに見つかった核を入れるためだけの箱ではない。定型に入れようとする過程で、核を見つけさせることがある。

ここで注意したいのは、定型と音数合わせを同じものだと思わないことである。五七五七七に近づけようとすると、足りない音を埋めたくなる。そこで「とても」「すごく」「なぜか」「少し」「なんとなく」のような言葉が、必要以上に入ってしまうことがある。

もちろん、これらの言葉がいつも悪いわけではない。「少し」でしか出せない弱さもある。「なぜか」が本当に必要な場合もある。問題は、その言葉が歌の核に関係しているかどうかである。音数を合わせるためだけに入れた言葉は、歌の焦点をぼかすことがある。

たとえば、「とてもさびしい」と書けば、感情の強さは説明される。しかし、その「とても」が、読者に何を見せているかを考えなければならない。強い感情を直接言うことで、かえって場面が薄くなることがある。読者は「さびしいのだな」とは理解するが、そのさびしさがどこから発生しているのかを受け取れないことがある。

定型は、空いた音を何かで埋めるためのものではない。必要な言葉を探すためのものである。音数が足りないから足す、という発想だけで進むと、短歌は整って見えても弱くなる。五七五七七に収まっているのに、何が大事なのかわからない歌になることがある。

逆に、音数に入らないから削る、というだけでも危ない。短歌は短いから、削ることが大事である。しかし、何でも削ればよいわけではない。大事なのは、核を削らないことである。

物が核なら、その物を残す。場面が核なら、その場面が見える言葉を残す。違和感が核なら、その違和感が読者に伝わる配置を考える。関係性が核なら、誰と誰のあいだに何が起きているのかを消しすぎない。身体感覚が核なら、説明よりも感覚の手がかりを残す。

削るべきなのは、核ではなく、核をぼかしている説明である。

ここを間違えると、短歌はただ短いだけの文章になる。事情を削ったつもりで、読者が受け取るための手がかりまで消してしまう。感情語を削ったつもりで、感情が発生していた場面まで消してしまう。音数に合わせたつもりで、その歌のいちばん大事な部分を失ってしまう。

定型に入れるときは、何を削るかより先に、何を残すかを見るべきである。残すものが決まっていない削除は、推敲ではなく、単なる圧縮になりやすい。短くはなるが、強くなるとは限らない。

定型は、言葉の量だけでなく、言葉の順番も考えさせる。

五七五七七は、単に三十一音前後の言葉を並べる枠ではない。初句に何を置くかで、読者の入口が変わる。最初に物を置くのか、時間を置くのか、動作を置くのか、呼びかけを置くのか。それだけで、読者が一首に入っていく角度は変わる。

三句までで何かが一区切りになるかどうかによって、上句と下句の関係も変わる。前半で場面を置き、後半で感情や認識が動くこともある。前半で抽象的な言葉を置き、後半で具体物に落とすこともある。あるいは、最後まで意味を決めきらず、結句で読後感を変えることもある。

結句に何を置くかは、とくに大きい。最後の七音は、読者が一首を読み終えたあとに残る場所である。そこに説明を置くのか、物を置くのか、感情を置くのか、動作を置くのか、沈黙に近い言葉を置くのか。それによって、一首の出口は変わる。

このように考えると、定型は言葉を閉じ込めるだけの器ではない。読まれる順番を設計する枠でもある。短歌は短いからこそ、どの言葉をどこに置くかが大きく働く。助詞ひとつで関係性が変わり、結句ひとつで読後感が変わるのは、そのためである。

自由に書けることと、自由に届くことは違う。

自由な文章なら、いくらでも説明を足せる。自分の中にあるものを、そのまま広げて書くことができる。それは大切な自由である。けれど、自由に書けることが、そのまま読者に届くことではない。書き手の中ではつながっていることも、読者にとっては散らばって見えることがある。多く書いたことで、かえって焦点が見えにくくなることがある。

短歌の定型は、その散らばりを一度止める。三十一音前後という短い形の中に入れるために、言葉を選び、削り、置き直す必要が生まれる。その過程で、作者の中にあった経験は、読者に渡せる形へ近づいていく。

もちろん、定型を守ればよい短歌になるわけではない。五七五七七に整っていても、歌の核が見えないことはある。音数は合っていても、ただの説明になっていることもある。逆に、定型から少しはみ出すことで必要な響きが生まれる場合もある。だから、ここで言いたいのは、定型を絶対の規則として恐れることではない。

大事なのは、定型を音数合わせとしてだけ扱わないことである。定型は、言葉を選ぶための装置である。何を入れるか。何を削るか。どの順番で置くか。その判断を作者に迫る仕組みである。

短歌にしようとするとき、まず問うべきことは、この一首の核は何か、である。五七五七七に近づけたとき、その核は残っているか。音数合わせのためだけに足した言葉はないか。音数に入らないからといって、核を削っていないか。説明を削っても、読者の手がかりは残っているか。初句に置いた言葉は、読者の入口として働いているか。結句に置いた言葉は、一首の出口として働いているか。

この問いを持つだけで、定型への向き合い方は変わる。窮屈な決まりに合わせるのではなく、定型の力を借りて歌の焦点を見つけることができる。自由を失うのではなく、自由な素材を作品の形へ変えていくことができる。

五七五七七は、たしかに制約である。けれど、その制約があるから、言葉は選ばれる。選ばれるから、歌の核が残る。核が残るから、短歌は作者の中だけの思いにとどまらず、読者に渡せる形を持ちはじめる。

次に考えたいのは、そのように形になった短歌が、作者の中で終わらず、読者の中でどう立ち上がるかである。

(了)


深水英一郎
次世代短歌

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