短歌の作り方「たくさん詠んだほうがよいと考える、いちばんの理由」

わたしは常日頃から「短歌はたくさん詠んだほうがよい」と言い続けています。なぜそう考えるのか。今日はその理由をちょこっと書いてみます。

もちろん、「たくさん作ることで練習になる」とか「量は質を担保する」という一般的な理由もあります。しかし、その最大の理由は「詩(意味や表現)と音(韻律やリズム)を見事に融合させる作品は、意図的に生み出すことが非常に難しく、運命に頼らざるを得ない」ということにあります。

短歌の本質は、「詩」と「音」という二つの要素にあります。「詩」とは短歌が伝える意味やイメージ、感情の部分。「音」とは五七五七七という音数律やリズム、言葉の響きといった韻律的な部分です。短歌が最も輝くのは、この二つが完璧に調和したときです。

この調和が難しい理由は単純です。意味的に最適な言葉が、音律的には最適ではないことがよくあります。逆に、音の流れとして美しい言葉の組み合わせが、伝えたい意味やイメージとしては十分でないこともあります。「詩」と「音」は時に相反する要素を持ち、両者の完璧な融合は技術だけでは制御しきれない部分なのです。

これは宝石を探す作業に似ています。採掘の技術をどれほど磨いても、最高の宝石に出会えるかどうかは、ある程度は運命に委ねられています。どこを掘れば最高の原石が見つかるか、完全に予測することはできないのです。

偶然の産物である以上、わたしたちがとるべき最善の戦略は「試行回数を増やす」こと。つまり「たくさん詠む」ことです。多く詠めば詠むほど、「詩」と「音」が奇跡的に調和した瞬間に出会える確率は高まります。たくさん掘れば掘るほど、素晴らしい宝石に巡り会える可能性も高まるのです。

一首一首を大切に詠みながらも、数も多く詠むことで、思いもよらない輝きを持つ短歌との出会いを待つ。最高の短歌との出会いは、計画できない偶然の産物、運命です。その偶然を味方につけるために、運命の出会いを果たすために日々歌い続けるのです。

これがわたしが「たくさん詠んだほうがよい」と言い続ける、いちばんの理由です。

(深水英一郎)


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