みなさん、いつもXやウェブサイトでたくさんの作品投稿をいただき、ありがとうございます。企画の呼びかけ人として、とてもうれしいです。
わずか31音という限られた言葉の中から、豊かな感情や鮮明な情景が立ち上がってくる瞬間がある——それこそが短歌の持つ不思議な魅力で、皆さんの作品から日々それを感じています。
「#毎日短歌」や「#ことばの断片」に寄せられた一つひとつの作品を、私は時間を変えて3回読むようにしています。みなさんの作品と向き合う時間は、私にとって宝探しのような楽しいひとときです。まだまだ勉強中の身ですが、毎日たくさんの短歌に触れているうちに自分なりの読み方、感じ方が生まれてきていることに気づきました。
■31音を超えて溢れ出してくるもの
私が心惹かれる短歌には「31音を超えて溢れ出してくるもの」があります。ずいぶん感覚的で、まだ自分で自分にうまく説明がついていません。ですので、この「溢れ出してくるもの」の正体について最近よく考えています。
短歌には長い歴史の中で培われてきた技法や定石があります。それらに習熟することで、大きく外すことなく安定した作品を生み出すことは可能とされています。しかし、私が直感的に惹かれるものは、それを超えた部分にあるように思います。
31音という小さな器から溢れ出してくるような力強さや豊かさを持った短歌。言葉どうしが複雑に絡みあい、その限界を超えて広がろうとする力を引き出すことに成功しているかどうか。そんなところにいつのまにか注目するようになってきています。これはもしかしたら短歌の「詩」の部分ということなのかもしれません。
■短歌という詩的謎解き
この「溢れ出してくるもの」の感覚は、歌人の穂村弘さんがその歌論の中で提唱している「圧縮と解凍」の考え方にも通じています。作者は自らの経験や感情、思考を31音という極めてちいさな空間に圧縮し、読者はそれを自分なりに解凍しているという話です。
私はこの解凍のプロセスこそが短歌を読む楽しみだし醍醐味だと考えています。まるで「謎解き」のような楽しみがそこにあるんです。でも、これは普通の謎解きとは少し違います。
私たちが日常的に接する「謎解き」といえば、クロスワードやロジックパズルのように、明確な正解を持つものです。例えば「3×4」という問題には「12」という唯一の正解があり、それが明確であるからこそ解けた瞬間に達成感や爽快感があります。
一方、短歌という「詩的謎解き」には、唯一絶対の正解は存在しません。読み手の数だけ謎解きの方法があり、異なる解釈が生まれる多義的なもの。でありながらそれらが互いに矛盾することなく共存できる。このことこそが、短歌の持つ不思議な魅力なのです。
歌会で他の人の解釈や感想を聞くと、人それぞれだということがよくわかりますし、多義的であること自体にすごく楽しみを感じます。時には作者の意図を超えることがある。それが「詩的謎解き」の面白さなのだと思います。
短歌を読むとき、私たちは必ずしも論理的に読み解いているわけではありません。説明がつながっていないのに、なぜか心に強く響く——その体験は、論理では説明できない「詩的」な瞬間と言えるのではないでしょうか。
■詩的謎解きの喜びを一緒に
私は短歌が好きなみなさんが知っているこの「詩的謎解き」の体験をより多くの方と共有したいと考えています。短歌は一人で静かに味わうものでもありますが、他の読者と解釈や感想を共有することで、新たな発見や喜びが生まれることも事実です。
そのため、短歌のもつ詩的謎解きの魅力をなんとかわかりやすくより多くの方に伝える方法はないだろうかと日々考えているところです。もちろん、ひとりでやるには限界がありますので、みなさんと一緒に考えていきたいです。
最近ハッシュタグ企画で「短歌を作るときに気をつけていること」や、「初心者だったころの自分に教えてあげたいこと」などをみなさんにお聞きしているのは、集合知を使ってそれらの秘密を解き明かすことができないかということを考えているからだったりします。多義的であるがゆえに誰か一人の考え方だけではなく、多くの方から一人ひとりの経験や知恵を集めることで、短歌の持つ魅力や可能性をより広く深く探求できると信じています。
みなさん、ぜひこれからもたくさんの作品を投稿してください。あなたの次の一首が、誰かの心に見たことのない風景を開き、新たな「詩的謎解き」の冒険へと誘うかもしれません。もし素敵な謎解きの体験があればぜひ共有してください。
言葉が、誰かの心に響く瞬間を、これからも一緒に探していけたらと思います。
(深水英一郎)
次世代短歌/毎日短歌