詩とは、説明ではなく発生させる言葉である──短歌を感想文にしないために [#002]

前回は、短歌は五七五七七の感想文ではない、と書いた。

短歌には五七五七七という形がある。三十一音前後という短い器がある。その器は、短歌を短歌たらしめる大切な条件である。しかし、思ったことを五七五七七に並べれば、それだけで短歌になるわけではない。

では、感想文ではなく、短歌とは何なのか。

ここで一度、短歌そのものから少しだけ離れて、詩とは何をする言葉なのかを考えたい。

結論から言えば、詩とは、説明する言葉ではなく、読者の中に何かを発生させる言葉である。

ここでいう「発生」とは、難しい言葉ではない。読んだ人の中に、感覚が生まれること。感情が動くこと。記憶が呼び出されること。何かの見え方が、少し変わること。そういう働きのことである。

短歌もまた、この詩の働きを持っている。

だから短歌を書くときには、自分が何を感じたかを説明するだけでは足りない。読者の中に、何が起きてほしいのかを考える必要がある。

感想文は、自分が何を感じたかを相手に説明する文章である。

うれしかった。悲しかった。きれいだと思った。つらかった。感動した。さびしかった。そうした気持ちを整理し、言葉にして伝える。

これはこれで、大切な文章である。感想文には感想文の役割がある。自分の考えをまとめるためにも、誰かに経験を伝えるためにも、感想文は必要である。だから、感想文そのものが悪いわけではない。

問題は、それをそのまま短歌にしてしまうことである。

たとえば、

私はとてもさびしかった。

という文がある。これは意味としてはよくわかる。作者がさびしかったのだと伝わる。けれど、この文を短くして五七五七七に近づけたとしても、それだけでは短歌として強くなりにくい。

なぜなら、これはさびしさを説明しているだけだからである。

読者は「この人はさびしかったのだな」と理解することはできる。しかし、読者自身の中にさびしさが生まれるとは限らない。

ここに、感想文と詩の違いがある。

感想文は、感じたことを説明する。詩は、読者の中に感じることが起きるように言葉を置く。

この違いを理解すると、短歌で何をすればよいのかが少し見えてくる。

詩は、意味を説明するだけの文章ではない。

もちろん、詩にも意味はある。作者の感情もある。考えもある。経験もある。けれど、詩の働きは、それらをそのまま説明することだけではない。

詩は、読者の中に感覚や感情や記憶を発生させる。

作者が「悲しい」と書くのではなく、読者の中に悲しさが生まれるように言葉を置く。作者が「きれいだった」と言うのではなく、読者がきれいさを感じるように場面を作る。作者が「不安だった」と説明するのではなく、読者の身体の奥に、少し落ち着かない感じが残るように言葉を選ぶ。

短歌も、この働きを持つ。

短歌は短い。三十一音前後しかない。だから、すべてを説明することはできない。むしろ、説明を詰め込みすぎると、読者が感じる場所がなくなってしまう。

短歌では、言い切ることより、立ち上がらせることが重要になる。

「私はこう思った」と結論を渡すのではない。読者がその場面に触れ、そこから何かを感じ取れるようにする。作者の内側にあったものが、読者の内側で起こり直すようにする。

それが、短歌を感想文から分ける大きな線である。

違いを、もう少し具体的に考えてみる。

たとえば、

私はとてもさびしかった。

という文がある。

これは、さびしさを説明している。意味は明確である。しかし、読者の中にさびしさが起きるかどうかは別である。

一方で、次のように書くこともできる。

夜の台所に、誰も使っていないコップが残っていた。

これは「さびしい」とは言っていない。けれど、夜の台所、誰も使っていないコップ、残っているという状態が置かれることで、そこに人の不在が見えてくる。読者は、その場面からさびしさを感じ取ることができる。

前者は感情を説明している。後者は、さびしさが立ち上がる場面を置いている。

別の例を出す。

別れがつらかった。

これは意味をまとめている。何があったのかはわかる。けれど、つらさの質はまだ見えてこない。

改札を出ても、まだ手のひらに切符の硬さが残っていた。

こちらは、別れという言葉を使っていない。つらいとも言っていない。けれど、改札を出たあとにも手のひらに残る切符の硬さがある。その身体感覚によって、別れのあとに残るものが読者の中に生まれる。

感情を直接言うのではなく、身体に残った感覚から感情を発生させている。

さらに、次のような違いもある。

春が来てうれしかった。

これは感想である。意味はわかる。春が来て、作者はうれしかったのだと伝わる。

脱いだ上着の袖口だけが、昼の光を覚えていた。

こちらは、春とも、うれしいとも言っていない。けれど、上着を脱いだこと、袖口に残る光、昼の明るさがある。そこから季節が少し変わった感じが立ち上がる。

このように、詩の言葉は、感情を直接説明するかわりに、物や場面や動作や身体感覚を置く。

それによって、読者は意味を受け取るだけでなく、自分の中で感じることになる。

ここで大切なのは、感情語を絶対に使ってはいけない、ということではない。

「さびしい」「うれしい」「かなしい」「つらい」といった言葉が必要な短歌もある。感情語そのものが悪いわけではない。

ただし、感情語だけに頼ると、短歌は説明になりやすい。作者が感じたことを読者に報告するだけになりやすい。

感情語を使うなら、その感情が読者の中でも動くように、物や場面や響きが支えている必要がある。

短歌は短い形式である。

このため、初心者はしばしば、短歌を「長い説明を短くまとめるもの」と考えてしまう。

今日見た夕焼けがとてもきれいで、昔のことを思い出して、少し切ない気持ちになった。

こういう文章があったとき、それを三十一音前後に縮めれば短歌になる、と考えてしまう。

しかし、短歌は説明の要約ではない。

短くすることと、詩にすることは違う。

説明を短くすると、意味は圧縮される。けれど、読者の中に何かが起きるとは限らない。むしろ、短い器の中に説明を詰め込むほど、言葉は窮屈になる。

短歌では、すべてを言おうとしないことが大切である。

ただし、それは何も考えずに削るという意味ではない。どこを言い、どこを読者に渡すかを決めるということである。

読者が感じるための入口を残す。読者が自分の記憶や感覚を重ねられる場所を残す。意味を全部ふさいでしまわない。

短歌は、感想を短く説明する形式ではない。読者の中に何かを立ち上げるための、短い詩である。

この理解がないまま五七五七七だけを整えると、短歌はきれいに並んだ感想文になってしまう。

形は短歌に近い。けれど、読んだあとに何も残らない。

その原因は、形式が足りないからではない。読者の中に何を発生させるかという視点が抜けているからである。

説明しないことは、曖昧にすることではない

ここで、ひとつ注意が必要である。

説明しない、というと、意味をわざとわかりにくくすることだと思われるかもしれない。はっきり書かず、ぼかし、難しくし、読者にわからないようにすることだと思われるかもしれない。

それは違う。

説明しないことは、曖昧にすることではない。

むしろ、詩では具体的なものが重要になる。

コップ。切符。上着。窓。通知。椅子。靴。湯気。駅の階段。雨のにおい。そうした具体的なものがあるから、読者は場面を思い浮かべることができる。

場面を思い浮かべられるから、そこから感情が生まれる。

反対に、抽象的な言葉だけを並べても、読者の中には何も起きにくい。

孤独。希望。絶望。幸福。喪失。永遠。こうした言葉は強い。しかし、強い言葉であるぶん、使い方を誤ると、意味だけが先に立つ。読者は言葉の意味を理解するが、具体的な感覚に触れられない。

詩に必要なのは、わからなさではない。

読者が感じ取れるだけの手がかりである。

余白という言葉も、ここで誤解されやすい。余白とは、何も書かないことではない。何も書かなければ、読者はただ置き去りにされる。

余白とは、読者が感じ取れるだけの手がかりを残したうえで、説明しすぎないことである。

すべてを作者が言い切らない。けれど、読者が入っていける入口は置いておく。そこに、短歌の難しさと面白さがある。

短歌を書くとき、まず自分の中に感情があることは自然である。

さびしい。うれしい。悔しい。腹が立つ。なつかしい。不安である。そうした気持ちが、短歌の出発点になることは多い。

しかし、その気持ちをそのまま書けばよいわけではない。

大切なのは、その気持ちがどこに現れていたのかを探すことである。

さびしかったなら、そのとき何が見えていたのか。
うれしかったなら、そのとき身体はどう動いていたのか。
不安だったなら、どんな音が気になっていたのか。
別れがつらかったなら、手元には何が残っていたのか。
春を感じたなら、どの物のどの部分に光が触れていたのか。

感情そのものではなく、感情が宿っていた場所を探す。

そこに、短歌の言葉の入口がある。

実作では、自分は何を説明しようとしているのか、と考えるとよい。その説明を、物や場面に置き換えられないか。感情語を一度消しても、感情は残るか。読者の中に、何が起きてほしいのか。言いすぎて、読者が感じる場所を奪っていないか。具体物や場面は残っているか。

これらの問いは、短歌を難しくするためのものではない。むしろ、短歌を感想文から抜け出させるための、実用的な確認である。

初心者ほど、まず感情を直接言いたくなる。それは自然なことである。けれど、そのままでは、短歌は作者の説明で終わりやすい。

読者に感じてもらうには、作者が感じたことをすべて説明するのではなく、感じるための入口を置く必要がある。

短歌は、作者の気持ちを小さな器に入れて保存するものではない。

作者の経験、認識、感情、記憶、身体感覚を、三十一音前後の言葉に圧縮し、読者の中で再び立ち上がるようにする詩である。

そのためには、説明だけでは足りない。

「私はさびしかった」と書けば、さびしさを説明することはできる。しかし、読者の中にさびしさが生まれるとは限らない。

「夜の台所に、誰も使っていないコップが残っていた」と書くと、そこには説明されていない感情が生まれる余地がある。読者は、そのコップを見る。台所の暗さを思う。誰かがいない感じを受け取る。

そのとき、作者の感情は、読者の中で起こり直している。

詩とは、このような働きを持つ言葉である。

短歌を感想文にしないためには、この働きを意識する必要がある。

短歌は、感想を短く説明する形式ではない。短歌は詩である。そして詩とは、読者の中に感覚、感情、記憶、認識を発生させる言葉である。

だから短歌を書くには、思ったことをそのまま書くだけでは足りない。何を感じたかだけでなく、その感じがどの物に、どの場面に、どの動作に、どの身体感覚に現れていたのかを見つける必要がある。

詩が読者の中に何かを発生させる言葉であるなら、その発生を偶然の感性だけに任せることはできない。

次に考えるべきことは、そこにある。

短歌は、感性だけでは書けない。

(了)


深水英一郎
次世代短歌

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