短歌は感性だけでは書けない──感じる力を、作品に変えるための技術 [#003]

前回は、詩とは説明ではなく、読者の中に何かを発生させる言葉である、と書いた。

作者が「悲しい」と説明することと、読者の中に悲しさが立ち上がることは違う。作者が「美しい」と言うことと、読者が何かを美しいと感じることも違う。詩は、意味を伝えるだけの文章ではない。言葉を通して、感覚や感情や記憶や認識が、読者の中に起きるようにする表現である。

では、そのような言葉は、感性だけで自然に書けるのだろうか。

ここで考えたいのは、短歌には感性が必要だが、感性だけでは作品にならないということである。

何かを感じる力は、短歌の入口になる。けれども、入口に立っただけでは、一首はまだ完成しない。感じたものを、短歌として読者に届く形へ変えるには、別の力が必要になる。それが、創作の技術である。

短歌を書くうえで、感性は重要である。

道ばたの花を見て、ふと目が止まる。夕方の駅で、理由もなくさびしくなる。誰かの言葉に、小さな違和感が残る。いつも通っている道なのに、その日だけ景色が違って見える。そうした引っかかりは、短歌の入口になる。

何も感じなければ、そもそも書き始めるきっかけが生まれにくい。短歌は、世界を見て、そこに何かを感じ取るところから始まる。大きな事件でなくてもよい。強い感動でなくてもよい。ほんの少し気になったこと、うまく言えない違和感、なぜか残ってしまった場面。そうしたものが、短歌のもとになる。

だから、感性は不要ではない。

むしろ、短歌の最初にあるのは、多くの場合、説明できる考えではなく、説明しきれない感覚である。なんとなくきれいだった。なぜかさびしかった。少し嫌だった。妙に覚えている。まだ言葉になっていないが、何かが自分の中に残っている。

この「何かが残る」という感覚は、大切にしてよい。

ただし、それだけで短歌が完成するわけではない。

感じたことをそのまま言葉にすると、短歌は感想文に近づきやすい。

たとえば、夕焼けを見て美しいと思ったとする。そのまま書けば、「夕焼けがきれいだった」という内容になる。別れのあとにさびしいと思ったなら、「別れてさびしかった」という内容になる。雨の日に気分が沈んだなら、「雨が降って悲しかった」という内容になる。

もちろん、これらは嘘ではない。感じたこととしては正しい。けれども、それをそのまま置いただけでは、読者の中に同じ感覚が起こるとは限らない。

「きれいだった」と言われても、読者には何がどうきれいだったのかが見えない。「さびしかった」と言われても、そのさびしさがどのような質のものだったのかは伝わりにくい。「悲しかった」と言われても、読者の中に悲しみが発生するとは限らない。

ここに、前回の話が関わってくる。

詩は、説明ではなく発生させる言葉である。だとすれば、短歌を書くときに必要なのは、「私はこう感じました」と報告することだけではない。読者がその感覚に触れられるように、言葉を置くことである。

感性は、素材を生む。けれども、作品を完成させるには、素材をどう扱うかを考えなければならない。

何を見せるのか。何を言わないのか。どの順番で言葉を置くのか。感情を直接言うのか、場面に託すのか。五七五七七の流れの中で、どこに重心を置くのか。書いたあと、どこを削り、どこを残すのか。

そこには、感性とは別の判断がある。

短歌を書くには、いくつかの力が関わっている。

まず、何を短歌のもとにするかを選ぶ力がある。日常には無数の出来事がある。そのすべてが、そのまま短歌になるわけではない。目に入ったもの、耳に残った言葉、身体に残った感覚の中から、どれを拾うのか。そこには選択がある。

次に、その素材をどう見るかを決める力がある。同じ雨を見ても、ある人は退屈と感じ、ある人は安心と感じ、ある人は過去の記憶を思い出す。短歌において重要なのは、雨そのものだけではない。その雨を、どの角度から見ているかである。

さらに、感情を直接言いすぎない力も必要になる。もちろん、感情語を使ってはいけないということではない。しかし、「さびしい」「悲しい」「うれしい」と書けば、必ず読者に届くわけではない。むしろ、感情を言い切ることで、読者が感じる余地が小さくなることもある。

言葉を選ぶ力も欠かせない。短歌は短い。三十一音前後の中では、一語の選択で印象が大きく変わる。強い言葉を置くのか、弱い言葉を置くのか。日常語にするのか、少し硬い言葉にするのか。言葉の順番を変えるだけでも、読まれ方は変わる。

そして、形式に入れる力がある。短歌は自由な短文ではない。五七五七七という器がある。もちろん、音数は機械的に数えればよいというものではない。だが、形式があるからこそ、言葉の圧縮が起こり、余白が生まれる。形式は、短歌を窮屈にするだけのものではない。言葉を詩に近づけるための圧力でもある。

最後に、書いたあとに直す力がある。最初に出てきた言葉が、必ずしも一番よい言葉とは限らない。むしろ、最初の言葉には、説明が多すぎることがある。言いたいことを全部入れようとして、焦点がぼやけることもある。推敲とは、感じたものを壊す作業ではない。感じたものがもっとよく見えるように、焦点を合わせる作業である。

このように考えると、短歌を書くことは、単に「感じたことを書く」ことではない。

感じたことを、素材として拾う。その素材に、見方を与える。感情を、どう言葉にするか考える。言葉を選び、順番を決める。形式の中に入れる。書いたあとに直す。

短歌は、こうした判断の積み重ねによって作品に近づいていく。

ここで誤解しやすいのは、技術という言葉である。

技術というと、創作が冷たくなるように感じる人がいるかもしれない。感じたままに書くほうが自然で、技術を考えると作為的になる。そう感じる人もいるだろう。

しかし、短歌における技術は、感性を殺すためのものではない。

技術とは、感じたことを読者に届く形へ整えるためのものである。

たとえば、自分の中に強い感情があっても、それをそのままぶつけるだけでは、読者には届かないことがある。作者の中では切実でも、読者には事情がわからない。作者の中では鮮明でも、読者には場面が見えない。作者の中では深い意味を持っていても、読者にはただの説明に見える。

そのとき必要なのは、感情を弱めることではない。感情が伝わる形を探すことである。

言いすぎているなら削る。抽象的すぎるなら、具体的な場面に戻す。説明が多すぎるなら、読者が感じられる余白を残す。言葉が平板なら、一語を選び直す。結句が弱ければ、最後の置き方を考える。

こうした作業は、感性の敵ではない。

むしろ、感性の通り道を作る作業である。

水があっても、流れる道がなければ広がってしまう。感情も同じである。強く感じているだけでは、作品の形にならないことがある。短歌の技術は、その感情や感覚が、三十一音前後の短い構造の中を通って、読者に届くようにするためのものだ。

技術があるから、感性は閉じ込められるのではない。

技術があるから、感性は形を持つ。

短歌は、完全にマニュアル化できるものではない。

この言葉を使えば必ずよい歌になる、という決まりはない。この順番で作業すれば必ず名歌になる、という手順もない。短歌は詩であり、詩には最後まで説明しきれない部分が残る。そこを失えば、短歌はただの作業になってしまう。

しかし、だからといって、短歌を才能や感性だけのものにしてしまう必要はない。

創作の足場は学べる。判断軸は持てる。練習できることもある。

どこを見るか。何を短歌のもとにするか。感情をどこまで言うか。何を削るか。どの言葉を選ぶか。五七五七七の流れをどう使うか。書いたあと、どこを直すか。

これらは、少しずつ学ぶことができる。

もちろん、学んだからといって、すぐによい歌が書けるとは限らない。技術を知ることと、実際に使えることは違う。判断軸を持つことと、毎回正しく判断できることも違う。

それでも、判断軸があるかどうかは大きい。

何がうまくいっていないのかがわかれば、直すことができる。なぜ平板に見えるのかがわかれば、次に試す方向が見える。感情を書きすぎているのか、素材がぼやけているのか、見方が弱いのか、言葉が説明に寄っているのか。そうした違いが見えてくると、短歌は少しずつ扱えるものになる。

短歌は、感性のある人だけのものではない。

短歌は、感じたことを言葉にする判断の積み重ねである。

その判断を、すべて一瞬でできる人もいるかもしれない。しかし、多くの場合は、書きながら覚えていく。読んで、書いて、直して、また読む。その繰り返しの中で、自分が何に反応し、どのような言葉を選びがちで、どこで説明しすぎるのかが見えてくる。

短歌を学ぶとは、感性を別のものに変えることではない。

自分の感性が、どのように作品になるのかを知っていくことである。

この連載では、短歌を書くことを、いくつかの入口から考えていく。

何を短歌のもとにするのか。その素材をどう見るのか。気持ちをどう扱うのか。どの言葉を選び、どの順番で置くのか。五七五七七という形をどう使うのか。そして、書いた歌の焦点をどう合わせるのか。

これらは、ばらばらの知識ではない。一首の短歌の中で、互いに関わっている。

素材がよくても、見方が弱ければ歌は平板になる。感情が強くても、言葉が説明に寄りすぎれば読者の中に発生しにくい。言葉が印象的でも、形式の流れが悪ければ一首として読みにくい。最初の発想がよくても、推敲しなければ焦点がぼやけたままになることがある。

だから、短歌を学ぶときには、「感性があるかないか」だけで考えないほうがよい。

感性は入口である。

しかし、短歌は入口だけでは終わらない。

感じたものを、どのように拾うか。どう見るか。どう言葉にするか。どこを削るか。どの形に入れるか。そこに、短歌を書く技術がある。

短歌には感性が必要である。しかし、感性だけでは作品にならない。感じたことを、素材として拾い、見方を与え、言葉を選び、形式に入れ、推敲することで、短歌は読者に届く作品へ近づいていく。

次に必要なのは、何を短歌の素材として拾えばよいのかを知ることである。

短歌の素材は、特別な出来事でなくてよい。むしろ、短歌は日常の中にある小さな引っかかりから始まることが多い。その話へ進んでいく。

(了)


深水英一郎
次世代短歌

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