前回は、短歌は日記とどこが違うのかを考えた。日記は、自分のために出来事を記録することが多い。何があったか。誰と会ったか。何を思ったか。そこには、その日の自分を残すという大切な役割がある。
しかし短歌は、出来事をそのまま保存するだけではない。自分の経験を、読者の中でもう一度立ち上がるように言葉へ組み直す。そのためには、日常をただ流して記録するだけでは足りない。何を取り出すのか。どこに焦点を合わせるのか。何を言わずに残すのか。そうした選択が必要になる。
ここで考えたいのが、観察である。
観察とは、ただ細かく見ることではない。いつもと違うところに気づくことである。
観察というと、目の前のものを細かく描写することだと思われやすい。机の色、空の明るさ、花びらの形、コップの影。もちろん、細部を見ることは大切である。細部を見なければ、言葉はすぐに大ざっぱになる。「きれいだった」「悲しかった」「楽しかった」という言葉だけでは、読者の中に場面が立ち上がりにくい。
だが、細かく書き込めばそれだけで短歌になるわけではない。細部がたくさん並んでいても、その中に焦点がなければ、読者はどこを見ればよいのかわからない。観察とは、目に入るものを全部拾うことではない。目に入るものの中から、なぜか引っかかるものを見つけることである。
同じ道を歩いていても、毎日まったく同じではない。昨日は閉まっていた店のシャッターが、今日は半分だけ開いている。いつも同じ場所にいる猫が、今日は少し離れた植え込みの奥にいる。駅の階段に、片方だけの手袋が落ちている。信号待ちの人の列が、なぜかいつもより静かである。
同じ部屋にいても、毎日まったく同じではない。カーテンの隙間から入る光の角度が違う。机の上の本が、少しだけ斜めになっている。昨日のコップの跡が、まだ残っている。洗濯物が乾ききらず、袖口だけが重く垂れている。誰かが座ったあとの椅子が、机から微妙に離れている。
同じ人と話していても、毎回同じではない。返事の速さが違う。いつもなら笑うところで笑わない。言いかけた言葉を途中でやめる。こちらを見ているようで、少しだけ別のものを見ている。何か大きな事件が起きたわけではない。それでも、そこには違いがある。
短歌の入口は、しばしばそのような小さな差にある。
いつもあるものがない。いつもないものがある。いつも通りに見えるのに、どこかだけ違う。その小さな違いが、ただの一日を、短歌の素材へ変え始める。
ここで大切なのは、美しいものだけを探さなくてよい、ということである。短歌を書こうとすると、つい美しい風景を探したくなる。夕焼け、花、月、海、雨上がりの光。そうしたものも、もちろん素材になる。しかし、短歌の素材は美しいものに限られない。
変なものも素材になる。気まずいものも素材になる。少し不快なものも、気になるものも、見ないふりをしたくなったものも素材になる。
駅の隅に置き忘れられたビニール傘。開けないまま残っている通知。洗面所に落ちている短い髪。ごみ箱に入らず、床に落ちたレシート。少しだけぬるくなった水。誰かが直さなかった椅子。返事をするには遅すぎるメッセージ。そうしたものは、一見すると歌にならなそうに見える。だが、なぜか目に残ったなら、そこには短歌の入口がある。
観察とは、美しさを探すことだけではない。引っかかりに気づくことである。
なぜか気になる。少し変だと思う。理由はわからないが覚えている。見過ごせなかった。そうした違和感は、短歌にとってかなり重要である。違和感とは、まだ言葉になっていない見方だからである。
たとえば、「さびしい」とはまだ言わない。ただ、いつも二つある湯のみが、今日は一つだけ伏せられていることに気づく。「不安」とはまだ言わない。ただ、相手の返事に、いつもより短い空白があったことを覚えている。「うれしい」とはまだ言わない。ただ、帰り道の自動販売機の光が、いつもより少し明るく見えたことを残しておく。
感情を先に言葉にしてしまうと、観察が粗くなることがある。「さびしい」と書いた瞬間に、なぜさびしいのか、さびしいときに何が見えていたのかを探す手が止まってしまう。「うれしい」と書いた瞬間に、何がいつもと違っていたのかを見なくなることがある。
感情語が悪いわけではない。悲しい、うれしい、さびしい、こわい、なつかしい。そうした言葉が必要な場合もある。ただ、短歌では、感情語を置く前に見るべきものがある。感情の前に、場面がある。場面の前に、違いがある。
何が見えていたのか。何がいつもと違っていたのか。どの物が、どの音が、どの間が、どの手つきが、自分の中に残ったのか。そこを見る作業が、短歌における観察である。
以前、短歌の素材は特別な出来事でなくてよいと述べた。また、よい短歌は出来事ではなく見方で決まるとも述べた。観察は、その二つをつなぐ位置にある。
素材とは、短歌のもとになるものである。見方とは、その素材をどう見るかである。観察は、ただの素材が見方を持ち始める瞬間にある。
雨が降った、というだけなら出来事である。だが、雨の日の窓に、指で一度拭ったような跡が残っていることに気づけば、そこには見方が生まれ始める。友人から返事が来ない、というだけなら出来事である。だが、通知欄を何度も見たあと、画面が暗くなる瞬間だけを覚えているなら、そこには短歌の入口がある。
観察とは、出来事を大きくすることではない。出来事の中にある差を見つけることである。その差に気づいたとき、素材はただの記録ではなくなる。自分が何に引っかかったのかが、少しずつ見えてくる。
もちろん、見つけた違いがすぐに短歌になるとは限らない。むしろ、最初は短歌にしなくてよい。今日、いつもと違ったことを一つだけ残しておく。なぜか覚えているものを書いておく。少し変だと思ったことを、そのままメモしておく。五七五七七に整えるのは、そのあとでよい。
たとえば、次のように考えることができる。
いつもと違うところはどこか。なぜか覚えている物は何か。少し変だと思ったことは何か。見ないふりをしたものは何か。いつもあるのに、今日はなかったものは何か。いつもないのに、今日はあったものは何か。その違いに、自分はなぜ引っかかったのか。感情語を使わずに、その違いだけを一文で書けるか。
この問いは、短歌をすぐに完成させるためのものではない。日常を、短歌の素材として見直すための問いである。
観察は、特別な才能ではない。もちろん、よく見る力には個人差がある。だが、最初から鋭く見ようとしなくてよい。毎日すばらしい発見をしようとしなくてよい。一日に一つ、いつもと違うところを残すだけでよい。
短歌を書く前から、創作は始まっている。
言葉を五七五七七に並べる前に、何を見るかを選んでいる。何を見過ごさないかを選んでいる。何に引っかかったのかを、まだ結論にせずに持っている。その時間もまた、短歌の一部である。
日記は、その日に起きたことを残すことができる。短歌は、その日に起きたことの中から、読者に渡せる一点を選び取る。その一点は、最初から大きな出来事として現れるとは限らない。むしろ、微妙なずれ、小さな変化、理由のわからない違和感として現れることが多い。
観察とは、ただ細かく見ることではない。日常の中で、いつもと違うところ、小さく引っかかるところ、理由はわからないが覚えているものに気づくことである。
その違いは、まだ感情の名前を持っていないかもしれない。しかし、名前を持っていないからこそ、短歌になることがある。感情語を使わなくても残るものが、そこにあるかもしれない。
次回は、その残るものについて考える。感情語を消しても残るものが、その歌の核である、という話へ進む。
(了)
深水英一郎
次世代短歌

小学生のとき真冬の釣り堀に2回落ちたことがあります。人生で釣れた魚の数より落ちた回数の方が多いです。
そんなわたしですが、テクノロジーの発展によってわたしたち個人の創作活動の幅と深さがどういった過程をたどって拡がり、それが世の中にどんな変化をもたらすのか、ということについて興味があって文章を書いています。その延長で個人創作者をサポートする活動をおこなっています。